第16章 【信玄編・中編】
「ん、ちょっとしたな、願掛けってやつだ」
「願掛け?」
「うん」
あのとき、信玄たち一行は馬に乗り、命からがら安土から春日山城に逃げ帰った。
それ以来、信玄は一切甘味の類を口にしていない。
「三度の飯より好きなモンを我慢するとあっちゃあ、相当欲張りな願掛けだねえ。一体何をお願いしてるんだい?」
「知らないのか?願掛けは他人に漏らすと叶わないってね」
「ま、憎らしい」
「いてて・・・」
遊女は膝の上にある信玄の頬を、きゅっと抓った。
─── ◇ ─── ◇ ───
夜になり、春日山城の居室に戻った信玄は、火鉢の前に座りうつらうつらとしていた。
コトン、
天井のほうから小さな物音がした。
信玄が薄目をあけると、天井からひらりひらりと小さな紙片が降ってきた。紙片を空中で受け止め、開いてみると、そこには米粒のような小さな文字で、短くこう書いてあった。
【丹波守 出牢 御咎(おとがめ)無】
丹波守とは竜昌のことである。
それを読んだ信玄は、紙を小さく丸めて火鉢に放ると、畳にごろんと寝転んで手足を伸ばし、大の字になった。
そのころ幸村の部屋では、幸村と佐助が将棋を指していた。
そこへ、どかどかと足音も荒く、廊下を歩いてくる音がしたかと思うと、バンと勢いよく障子が開いた。
「おい幸!饅頭まだあっただろ!」
「わっ御館様?びっくりした。こんな時間に!?」
「今食べたいんだよ!」
「何か良いことがあったんですか?信玄様」
「まあね」
佐助にニヤリと笑って答える信玄は、いつものあの色気のある、悪戯っぽい目の光を取り戻していた。
安土から春日山城に戻ってからというもの、信玄は呆けたように居室で火鉢に手をかざしていたり、ふらりと花街に出かけたりするだけの、ただのでくのぼうと成り果てていたのだった。
それが今、目に光が戻ってきたことに、幸村も気づいたようだ。
仕方ない、とばかりに苦笑すると、厨へと饅頭を取りにいった。
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