第16章 【信玄編・中編】
「その娘は俺とは無関係────いやなに、天下に聞こえる猛将・藤生竜昌が、どんなもんだか興味があってね。ちょっとばかり揶揄っただけだ」
そう言いながら、信玄はぺろりと乾いた唇を舐めた。
「でもそれが、こんな初心(うぶ)なお嬢さんだったとはね。正直がっかりしたよ」
信玄の形のいい唇から流れ出るその言葉を聞いた竜昌は、世界が急に色を失ったような気がした。
黒髪に揺れる藤の髪飾りも───
かがり火に照らされた赤銅色の瞳も───
たったひとつ綻んだ早咲きの紅梅も───
何もかもが、灰色の海に沈んでいった。
気が付くと、竜昌はくたりと地面に膝をついていた。
今までどうやって呼吸をしていたのかも思い出せないほど、苦しく短い息を吐きながら、竜昌は信玄の姿を見上げた。
『ッ…信殿…なんで…なんで…』
涙の向こうにぼんやりと滲んで見える信玄が、また顔を歪めるようにして笑った気がした。
その時、
「忍法────」
林の中から突然、よく通る声で誰かが叫んだ。
それと同時に、木々の枝の間から、どんぐりの実のように小さな粒が、バラバラと無数に落ちてきた。
「煙玉マシマシ!!」
丸い小さな粒は、地面に触れると、突如青白い煙を吹き出し、辺りはあっという間に濃い煙に包まれ、視界はゼロになった。
「忍びか!」
「御館様!」
「逃げるぞ、追え!!」
煙の中に怒声が響きわたり、辺りで再びカサカサと枯葉が鳴る様な音がしたかと思うと、辺りは一転、しんと静まり返った。
風で煙が流れていくのを待つと、信玄の姿も、忍びたちの姿も消え、そこに残っていたのは、竜昌と光秀の二人きりになっていた。
竜昌は、いつのまにか地面に落ちて泥だらけになっていた藤の髪飾りを見つけ、震える手で拾い上げた。
「…」
光秀は、つかつかと竜昌に歩み寄ると、その手首を掴んで、ぐいと引き上げ、立ち上がらせた。
「行くぞ」