第16章 【信玄編・中編】
「光秀…様…?」
暗闇から、ぼんやりと白く光る影が、ゆらりと現れた。
遠くのかがり火の光りを受けて輝く白銀の髪。まるで獲物を見つけた隼のように鋭い琥珀色の眼。
それはまさに、織田軍の隠密活動を司る、明智光秀その人だった。
つまり竜昌と信玄の二人を取り囲んでいる連中は、光秀配下の忍びということらしい。
光秀は竜昌の眼前まで歩み出ると、ふっと唇を歪めるように笑った。
「竜昌…お前が乳繰り合っていたその男が、誰だか分かっているのか?」
「ちっ…ちち…!?」
焦ったように眼を見開く竜昌から目を逸らし、その後ろに立つ男に、光秀はゆっくりと睨みつけた。
「かつて甲斐の虎と呼ばれた男───武田信玄だ」
「え…」
まだ竜昌が城主になったばかりの頃、甲斐の名将・武田信玄は、天下を目前にして病に斃れて死んだと、風の噂に聞いていた。
信玄が治めていた甲斐の国は、信長に攻め滅ぼされ、忠義に厚い家臣たちも最後の一兵まで戦い抜き、悉く討ち死にしたという話だった。
『信殿…信…』
竜昌はおそるおそる、背後を振りかえった。
そこにはいつものように、腕を組み、にこやかに笑う信玄がいた。
刀を構えた忍びたちに囲まれているとは、まるで思えない、腑抜けたような顔。
「かつてとは心外だなあ。これでも現役のつもりだが?…安土の銀狐よ」
瞬間、信玄がギロリと目を剥いた。さながら、獲物に喰らい付く直前の虎のような獰猛さを含んだその視線に、竜昌の背筋がぞくりと震えた。
それまでの優し気な、どこかつかみどころのない色男の面影は、もうそこには無かった。
「病で死んだと聞いていたが…減らず口を叩くほどの元気がまだあったとはな。それに…」
光秀の冷たい視線が、再び竜昌を捉える。
「うちの姫君にさっそく手を出してくれるとは。女好きの噂に違わぬ、卑しい虎だ」
「ああ…その娘か…フフッ」
卑屈にゆがんだ信玄の唇の端から、溜息とも嘲笑ともつかない息が漏れた。