第16章 【信玄編・中編】
ぽたり、ぽたり…
大粒の涙が竜昌の目から次々と零れ落ち、晴れ着の胸元を濡らしていった。
悟られまいと、涙を拭う動作もできず、ただ梅の花に顔を埋めていると、背中にふと暖かいものが触れた。
「どれ?」
それは、背後から竜昌の肩越しに頭をもたげ、梅の花に顔を寄せようとした信玄の逞しい胸板だった。
「本当にいい匂いだ。こんなに寒いのに、春はもう確実に来ているんだな」
信玄は竜昌の濡れた頬に触れんばかりに頬を寄せ、梅の花の香を嗅いだ。信玄が息を吸い込み、その胸が膨らむのが、背中越しに伝わってきた。
思わず身を固くする竜昌を、今度はふわりと温かい空気が包み込んだ。気が付くと、信玄が自らの羽織を寛げ、その懐に竜昌を閉じ込めていた。
「…!」
強く竜昌の身体を抱きしめるその太い腕や、堅い胸板は、火傷しそうなほどに熱く感じられた。
信玄は、竜昌の艶やかな黒髪に顔を埋めるようにして、低い声で囁いた。
「君を一緒に連れていけたら、どんなにいいかと、ずっと思っていた」
「!」
「かつての敵と共に生きていく決意をした君は、俺にとっては大層眩しかった。君が、過去にとらわれた俺を導いてくれるんじゃないかと、いつしかそんなふうにさえ願っていた」
「でも君は織田の家臣で… 今の俺には君みたいに生きることは到底できそうもない」
竜昌の心臓がズキリと疼いた。
耳を塞ぎたい。でも両の手は信玄に捕らえられ、その声は耳に直接流れ込んでくる。
「────お別れだ。君に会えてよかった。君の言う『次の世』が早く見れるように、遠くから祈っているよ」
「信殿っ…!」
信玄の腕の中で、振り返った竜昌の顎を、信玄の指が捕らえた。
指先にクッと軽い力が入り、竜昌の顔は上を向かされる。
二人の視線が絡み合った。言葉にするよりも何倍もの量の想いと感情の波が、その視線から伝わってきた。
「ああ…やっぱりまた泣かせちゃったな」
そういって、信玄は切なそうに笑った。
その最後の笑顔を目に焼き付けるように、大きく目を見開いてから、竜昌は静かに目を閉じた。
目を閉じていても、信玄の顔がゆっくりと近づいてくるのがその熱でわかった。