第16章 【信玄編・中編】
『信殿も、いまだ我が殿を恨んでいらっしゃるのですか』
その一言を、竜昌はどうしても口にすることができなかった。未来永劫、決して交わることのない二人の道を、その言葉で認めてしまうことが、ただ怖かった。
徐々に竜昌の目の淵が赤く染まっていった。頬に当てた信玄の手に、竜昌が歯を食いしばる感触が伝わってくる。必死に涙を堪えていることは明白だった。
『安土の戎さんとやら…頼むよ。この国を命がけで守ろうっていう、この姫さんの涙を、止めてやってくれ』
信玄は心の中で戎神に祈りながら、親指で静かに竜昌の下瞼をなでた。
『そうじゃないと…俺は…』
「あ…」
その時、竜昌がかすかに声をあげた。
「梅の花の匂い…」
「梅?」
急に竜昌は、信玄の手を振り切るように立ち上がった。まるで涙を隠すように、思いの丈を断ち切るように。
信玄の手のひらは外気に触れ、急激にその熱を奪われていった。
『前にもこんなことあったな…』
信玄は苦笑しながら、匂いの元を求めてふらふらと歩き出した竜昌の後をついていった。
「あ、ほら、信殿」
竜昌が指さすほうを見ると、参道から少し離れたところの暗がりに、見事な紅梅の老木があった。
今にもほころびそうな丸い蕾をいくつもつけているが、花が咲いているようには見えない。しかし芳しい匂いは確かにこの木から漂っていた。
竜昌は木の周りをぐるりと周って、目当てのものを見つけた。それはこの老木で今年一番最初に開いた、小さな紅梅の花だった。
竜昌はその花に鼻をくっつけるようにして、大きく息を吸い込んだ。
「ああ…いい匂い…」
甘い梅の花の香りが、じくじくと痛む胸一杯に広がった。この匂いで、胸の痛みも消せればいいのに。竜昌はもう一度大きく息を吸った。
しかし、竜昌の胸を満たした春の気配はむしろ、今までギリギリのところで保っていた涙の堰を、いとも簡単に溶かしてしまった。