第16章 【信玄編・中編】
「なーにを言ってなさるか!姫様が命がけでオラたちを守ってくれたお陰で、ここにこうしていられるんだし!」
「でも…その手じゃ…」
竜昌は、与平の左手をちらりと見た。これでは戦はおろか、野良仕事もままならないだろう。
「それがな、お菊様が、国中に御触れを出して下さったんじゃ」
菊とは、竜昌の姉、白菊のことである。秋津の城代家老に嫁ぎ、今では城主不在の秋津城の勝手方を切り盛りしている。
「安土や京では、山葵が高く売れるから、行けるものは売りに行けっちゅうてな。オラも足だけは丈夫だけんな、村中の山葵集めてここまで売りに来たんよ。そしたら信じらんねえくらい銭もらえてさあ」
与平が右手で、懐のあたりをぽんぽんと叩くと、中で銭が重そうな音をたてた。
「これで母ちゃんと坊に、綿入れ買ってやるんだ!」
「そうか…そうか…」
竜昌は嬉しさのあまり零れ落ちそうな涙を、なんとかこらえた。
「しかし姫様もお元気そうで何よりじゃ。織田の殿様の虜になったって聞いてな、酷い目にあってないか、みんなで心配しておったのよ」
「私は大丈夫だよ。織田様にはとても良くして頂いてる。みんなによろしく伝えておいてくれ」
「わかった!姫様に会ったって、みんなにうんと自慢しねえとな!」
「フフフ…」
その他にも、今の秋津の様子や、農民たちの話を、二人は尽きることなく話した。
そうしているうちに、やがて信玄と与一が、安土の町並みを満喫して、戻ってきた。
与平親子は、何度も何度も頭を下げながら、二人で秋津へと帰っていった。
うっすらと涙を浮かべながら親子を見送る竜昌を、信玄は愛おしそうに見つめた。
「何かいい事があったのかな?」
「え…?」
「いい笑顔だ」
温かくきらめく信玄の瞳に見つめられ、竜昌は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「笠を取ってくれたのは嬉しいが…反面その笑顔を他の男にも見せることになると思うと、ちょっと惜しいな」
「なっ…!」