第16章 【信玄編・中編】
悪戯に笑っていた信玄の視線が、ふと真剣味を帯びる。
「安土には、かつて私と剣を交えたことのある方…いえ、下手をすれば、私が殺めた方の縁者もいらっしゃるはずです」
竜昌の声は、かすかに震えている。
「今は、殿の配下として、安土の民のため、命を賭して戦う心づもりです。しかし、私を恨む者が、万が一でも私の顔を見れば、心安かろうはずもありません…」
殿とは信長のことだろう。その言葉を聞いた信玄の眉根がぴくりと動いたことを、川の水面を見つめていた竜昌は見ていなかった。
「…君は優しいんだな」
「あ…でもお城の皆様は、すべてをご存知の上で、親切にして下さいます。私にはもったいないくらいに」
「そうか。でも君は、どうなんだい?」
竜昌が再び信玄を見ると、信玄の気づかわしげな眼差しが、まっすぐに飛び込んできた。
「君だって安土の衆に、かつての仲間や一族を、傷つけられたことぐらいあるだろう。それでも、今度はそいつらを仲間として、命を懸けれられるのかい?」
「それは…」
核心をついた信玄の問いに、竜昌は息を呑んだ。
心臓の鼓動がどくどくと身体の中に響く。
「俺も旅の途中、信長公が制圧してきた国をいくつも見てきた。正直に言うと、あのお方だって、滅ぼした国々の多くの民から恨まれている」
「…」
答えに詰まる竜昌を見て、信玄は困ったように笑った。
「ちょっと意地悪な質問だったかな?」
竜昌は小さく首を振った。信玄の言うことは尤もだ。しかし心の裡を言葉にできないもどかしさに、信玄を見つめる竜昌の目が、わずかに潤んだ。
「すまない、女人にこんな顔をさせるなんて…俺もまだまだだな」
信玄はそっと手を伸ばし、竜昌の冷たい頬に触れた。
竜昌は、まるで信玄の甘い視線に絡めとられたように、何故かその手を避けることができなかった。
『ンッ…』
信玄の 男らしく固い指が触れた場所から、まるで火が付いたように熱が広がる。
竜昌の唇から、声にならない甘い吐息が漏れた。
その時、差し伸べられた信玄の手の甲に、ひとひらの雪の華が舞い降りた。