第16章 【信玄編・中編】
その時、水面にもう一つの影が映った。
「!!」
驚いた竜間が横を見ると、予想した通り、橋の欄干にもたれかかりながら、優しく微笑む信玄の姿があった。
信玄は、竜昌が置いて行った笠をかぶり、それを片手で少しだけ傾げて、そこから悪戯っぽい眼差しをのぞかせていた。
「姫、お忘れ物ですよ」
その声を聴いた竜昌は、まるで心臓を鷲掴みにされたような、胸の痛みを感じた。
しかし、その痛みは決して嫌なものではなく、やがて甘い痺れとなって、じわりと身体の隅々にまで広がっていった。
「あ、あの…」
舌がもつれてうまく言葉を発することができない竜昌の頬が、みるみる紅に染まる。
『…貴方は…何者ですか…』
いつも気配すら全く感じさせず、竜昌に近づく信玄。単なる行商人とは、とうてい思えなかった。
しかし同時に、竜昌は心の片隅で、信玄が今こうして現れてくれるのを待ち望んでいた自分を、認めざるを得なかった。
信玄は、被っていた笠を取ると、竜昌の方に差し出した。
「かたじけのうござ…あっ」
竜昌の両手が空を切る。
信玄は、竜昌の手が触れる寸前に、すいっと笠を持ち上げ、竜昌の目を覗き込んだ。
「もし良かったら、俺へのご褒美に、どうしていつも笠を被っているのか、教えてもらえないかな?」
「え…」
信玄は、口ごもる竜昌の瞳の奥に宿った小さな拒絶を、見逃さなかった。
「ははっ、ごめんごめん。冗談だよ。ただこんなに麗しい君なのに顔を隠すなんて、気になってね」
信玄は、何事もなかったように、笑いながら竜昌に笠を返した。
『麗しい』という言葉にさらに照れた竜昌は、真っ赤に染まった顔を受け取った笠で隠した。
しかし、かんざしの時のように、また用が済んだら信玄はあっさりと去っていってしまうのではないかという不安が、竜昌の口を開かせた。
「私は…」
川のせせらぎにすら消し去られそうな小さな声で、ぽつぽつと竜昌は話し始めた。
「私は…以前、敵方の人間でした」