第16章 【信玄編・中編】
『ん…見失ったか?』
信玄は竜昌の後を追って町外れまで来たが、竜昌の姿は見えなかった。人家も途絶え、あとは畑が広がるばかり。
そこへ、百姓らしき男が信玄に声をかけてきた。
「もし、お侍さん。アンタが追ってる娘なら、川下の橋のほうへいきなさったよ」
信玄はクスリと笑った。
「どうもありがとう。でもそれは地蔵だ、佐助」
「おや」
変装のために眼鏡を外していた佐助は、道端の地蔵に向かって話しかけていた。
正体がバレては仕方がないと、懐から眼鏡を取り出してかけると、佐助はどんよりと曇った空を見上げた。
「信玄様、もうまもなく雪が降る予報です。お早目にお戻りを」
「わかった、信じるよ。春日山でもお前の予言は正確だったからな」
「予言ではありません。科学に基づいた予報です」
「かがく…?」
「…こちらの話です。では、ご武運を」
キリッと眼鏡を指で押し上げると、佐助は音もなくその場から消えた。
信玄が振り返ると、たしかに畑の向こうに川が流れているのが見えた。
信玄は片手で竜昌の笠をもてあそびながら、その河原を下っていった。
竜昌は、衆人に顔を見られた恥ずかしさに、あてどもなく安土の町を彷徨い、町はずれを流れる川にたどりついていた。
川にかかる橋の上に立ち、水面を覗き込むと、頼りなさげな自分の顔が映った。
「あっ笠…」
その時やっと、竜昌は笠を置いてきたことに気付いた。
曇った空を映す灰色の流れを見つめながら、竜昌は片手で胸を押さえた。
胸がざわざわとする奇妙な感覚が、先ほどから消えない。正確に言うと、男たちにからまれている最中、人ごみをかき分けてくる信玄の姿を認めてから、それは始まった。
そしてそのざわめきは、信玄が行商人の女の手をとった時、さらに大きくなり、その場から遠く離れた今も、消えてはくれなかった。