第16章 【信玄編・中編】
信玄が引き留めるより前に、竜昌の姿は人ごみの向こうへ消えていった。後には、少しだけ刀で切られた笠が残されていた。
「おやおや、お忘れ物だ」
信玄は地面に落ちていた笠を拾うと、周囲に向かってそれをひらひらと振った。
「さあさ、見世物は終わりだ」
それを合図に、野次馬たちは三々五々と散っていき、後には信玄と女だけが残された。
女は地面に散らばった野菜を籠に集めながら、口の中でつぶやくように話した。
「…御屋形様、あまり派手にお動きめさるな」
「あーはいはい。わかってるよ」
それは、忍びたちが使う、辺りに聞こえない特殊な話し方。
女は行商人に化けて安土に潜伏している、信玄の忍び『三ツ者』の一人だった。
「彼奴に気付かれたら厄介です」
信玄は野菜を拾うのを手伝いながらも、その笑顔を崩さなかった。
「明智殿か~そりゃあ難儀だな」
いつものごとく、のらりくらりと返事をする信玄を見て、女は諦めたように小さくため息をつき、話題を変えた。
「お強うございますね、あの御仁」
「そうだろー?強い上に、あの美貌だ」
「惚れてしまいそうです」
「えー?お前がか?」
「いえ…私ではなく…」
女はチラリと信玄の表情を伺ったが、いつもの飄々とした笑顔からは何も読み取ることはできなかった。
「お、そうだ。笠を返しにいかないとな」
信玄は立ち上がって、竜昌の去っていったほうを見渡すと、ニッと笑った。
何人もの女を虜にしてきた、その甘い笑顔。
それを見て、女は二度目の溜息をついた。
「それくらいいいだろー?」
「はいはい。ご存分に」
信玄は、竜昌の笠を肩にかけると、意気揚々と竜昌のあとを追った。