第15章 【信玄編・前編】
「そういえば…」
舞と和やかに談笑していた信玄は、くるりと竜昌を振りかえった。
「りん殿の生国はどちらかな?その言葉遣い、近江の生まれではないだろう?」
常にふわりと笑みの浮かぶ信玄の唇は、悪気がないような、それでいて何か悪戯を企んでいるような、不思議な魅力を湛えていた。
なぜかその笑顔に引き込まれそうになり、竜昌は視線を逸らした。
「え、あ…はい」
笠ごしに竜昌の表情を伺うかのように、信玄は小さく首を傾げた。
「ここよりもっと…山奥の方です」
信玄は、その曖昧な答えにもかかわらず、満足そうに頷いた。
「そうか~。ときに、そこで山葵は採れるかな?」
「山葵?」
「うん、山奥なら、きれいな沢があるだろう」
「え、ええ、わさび沢と呼ばれている場所はありますが…」
「そうしたらそこで山葵を育てるといい。今、山葵は京や堺で大変な人気なんだ。南蛮の商人たちにも好評でねえ。とても高値で売れるから」
「は、はあ…(変な人…)」
その時、茶屋の娘が、盆にお茶と団子を乗せて持ってきた。
「お待たせしました~…って、信さん!?」
「え?もしかしてお鶴ちゃんかい?いや~全然気づかなかった。キレイになって、まるで別人みたいだ」
「いやだもう!」
茶屋の娘は、盆で口元を押さえながら、信玄の肩を軽く叩いた。
「まったく変わってないよね~信さんてば」
「ほんとね~」
「そういえばお鶴ちゃん、こないだあそこの小間物屋でね…」
娘は舞とも顔なじみのようで、二人はぺちゃくちゃと女同士のおしゃべりを始めた。
取り残された竜昌の信玄の間に、気まずい空気が流れる。
「あ、あの、信殿」
先に口を開いたのは、竜昌だった。
「ん?」
「私が…女だと、どうしてわかりました…?」
「ああ~」
竜昌は、いつも城下に出るとき、なるべく目立たぬように、地味な着物と袴を身に着け、深い編笠をかぶっていた。その腰には二本差しの刀。
そこらの女衆よりも頭一つ背の高い竜昌は、それだけでも侍に見えた。
しかし信玄は、出会いがしらに『二人の美女に出迎えてもらえるなんて』と言っている。その時にはすでに、竜昌のことが女だとわかっていたことになる。