第8章 【家康・後編】※R18
家康は全く聞く耳を持たず、そのまま歩き続けた。
家康の羽織に視界を遮られている竜昌は、どこへいくかもわからず、ただ身体を硬くして、力強く抱きしめるその腕を信じるしかなかった。
やがて、家康の足音が止んだ。
家康の腕がゆっくりと緩み、竜昌の身体を、岩のように固いものの上にそっと座らせた。
「見て」
家康の長い指が、竜昌の頭を覆う羽織のあわせを、そっと開いた。
すると、竜昌の眼前には、月明りに照らされた富士山が、裾野から頂上まで、その姿を惜しげもなく露わにしていた。
「きれい…」
圧倒的なその大きさと、艶めかしいまでの滑らかさをもつ稜線。
月の光を吸い込み、黒々と星空にそびえたつ富士の姿は、竜昌から言葉と、涙を奪った。
「泣き止んだ?」
家康は親指でそっと竜昌の涙をぬぐった。
見た目の細さとは違い、男らしい硬さを持った家康の指にツッと頬を撫でられ。竜昌の背筋がぴくりと反応した、
「ここ…俺のお気に入りの場所なんだ」
竜昌の隣に腰掛け、ぽつりと家康がつぶやく。
見ると、二人が腰かけている大きな岩の横に、二人が腕をまわしても到底とどかない太さの巨大な松が生えていた。樹齢は五百年は超えているだろう。
星空に黒々と枝を張った松は、二人の姿を月の光から庇うように静かに立ちつくしている。
「この石と松は、駿府城を築城するずっと前からここにあったんだ。どうしても残したくて、棟梁には無理を言った」
家康は近くに伸びる松の太い枝を片手で撫でた。
「なんだか、救われるんだ。俺が悩もうが何しようが全くおかまいなく、不二も、松も、この岩も、ずっとここにあるっていうことが…」
竜昌が家康の顔を見ると、その翡翠色の瞳は月光を湛えながら、静かに富士山を見上げていた。
「それに、あれらと比べたら人の一生なんて瞬きくらいの短さしかない。その短い時を、くだらない見栄や嘘や我慢で無駄にしてる場合じゃないなって」
家康の瞳が、竜昌を捉えた。