第1章 1
人の声がまばらになり、夕日が翳ったころ、桃城は真緒の背中に張り付いたような手をそっと離した。
桃城が体を起こしても抱きしめ続けている真緒の腕をじっと見て、合図でもするようにとんとんと腕を叩く。
腕を離した真緒がのろのろと顔を上げるころには、桃城は机の横に立てかけてあった鞄を背負い、こちらを向いていた。
薄暗くなった教室の中、桃城の表情は真緒からはよく見えない。
「…………
……悪かった。ありがとな。
……じゃあな」
ぽつりと、床に落とすように言葉を残して、桃城は足早に教室を出ていった。
真緒はその姿を追いもせず、目的だった忘れ物を手にとって、開け放されたドアをくぐる。
ドアの外でふと振り返った教室は、さっきまでの時間の痕跡など何一つない、冷たいくらいにいつもの風景を取り戻していた。
* * *
その後は、特筆するようなこともない。
桃城は特に彼女を作るでもなく、真緒はあの出来事について誰かに話すでもなく。
あの日の記憶は、日常の中に埋没していった。
ただ、時々真緒は思い返す。
あの日の真っ赤な教室。密かに交わした会話。自分を抱きしめたあの腕。
時に埋もれて、二度と陽に晒されることはなくても。
あなたと私の、二人だけの秘密。