第5章 涙と朝露
まだ朝露の残る山の中を風が抜ける。
その風が美しい湖面と花と木々と、少年の髪を揺らす。
ギンは昨日ここで出会った少女を待っていた。
来る保証はない。しかし、来ない保証もない。
彼女の残していった薄桃色の羽織を大切そうに抱えて、湖を眺める。
何度目かの風が吹いて、草木が擦れてさらさらと音を立てる。
その音の中に、小さく足音が混じった。
「…やっぱり来た」
ギンは心底嬉しそうな顔で振り返る。
そこには、笠を目深にかぶった少女が立っていた。
凪は嬉しそうにする少年とは正反対の気持ちで表情を険しくする。
(やっぱり彼が持ってた…)
あわよくば、羽織は木に掛かったままになっているかもしれない。
そんな都合のいい期待は、遠目に見えた人影にすぐに打ち砕かれた。
その人影が昨日この左目を見た少年だということも、その手に抱えられているのが自分の着物だということも分かっていた。
おそらく取り返すのは難しいだろう。何か引き換えに要求されるかもしれない。
しかし、一度は諦めた大切な羽織が目の前にある。
二度目はどうしても諦められなかった。
「…その羽織を返してください」
笠をさらに深くかぶり直して、凪は言う。
すると少年はニコニコしながら少し首を傾げた。
「ええよ?」
「…えっ?」
全く予想していなかった相手の言葉に、思わず間の抜けた声が出る。
「一晩考えたけど…これ持っとって無理に結ばれても、最後に離れてしまうんは嫌やし、返すわ」
「…どういうこと?」
「いや・こっちの話」
少年は訳のわからないことを言っていたが、とにかく羽織を返してくれるようだ。