第9章 Heal
前に座る母は眉を下げて笑った。
「“あの事件”の後さ、まりは塞ぎ込んでしまうんじゃないかって思ってたの。でもそんなこと無かった」
“あの事件”──今の私がある、全てのきっかけ。ヴィランのにやついた顔と、ヒーローの大きな背中が頭に浮かぶ。
母があの日のことを口にするのは初めてだった。
「救けてくれたヒーローみたいになりたいって話してくれたでしょう?反対なんて出来なかった。あんなことがあって、傷ついたあなたから……夢まで奪うなんて出来ないもの」
そんなふうに思っていたなんて──。
言葉が出なかった。代わりにひとつ頷いて見せれば、母はくすりと笑ってカップに口を付けた。
緩やかに上る湯気は照明の明かりの中に消えていく。
「あなたの父親もヒーローだったのよ」
「え、お父さんが?サポート会社の人じゃ?」
「そうよ。デザイナーしながらヒーローしてたの。あぁ、反対かしら。ヒーローしながらデザイナー、ね」
母は呆れたような口調で言い放った。突然の新事実に私は口をぱくぱくさせてしまった。
父がヒーロー?そんなの、今まで聞いたことない。
「わ、私しらない……」
「そりゃあ言ってないもん。言ったらあなたまでヒーロー目指しちゃうかもって思ってたから。今となっては、それも無駄だったけどね」
「お父さん、誰?どんな人?どんなヒーロー?」
今まで溜め込んでいたものが一気に溢れた。次から次へと湧き出る疑問をそのまま母にぶつけると、肩を竦めて一つずつ話してくれた。
「知らないのよ、何も。ヒーローだなんて知らないで結婚したの。勤め先の事務所名もなんちゃらデザインとかそんなのだったの。ある時何かおかしいと思って問い詰めたらヒーローだって白状してね、そっから信じられなくなって別れたの」
上手い言葉が見つからなくてカップに視線を落とした。
「そう、だったんだ……」
「ヒーローとは絶対結婚しないって決めてたからね。さっき言ったでしょ、不安になるのが嫌だって。お母さん騙されたの」
母は苦々しげに眉間にしわを寄せた。父のことが嫌いなのは知っていたが、経緯までは語ってくれなかった。問い詰めようものなら目を釣り上げて不機嫌MAXになるし。
まぁ父がヒーローだってこと隠していたから、余計に話せなかったんだろうな。
根掘り葉掘り聞きたい気持ちを抑えて、カップを手に取り喉を潤わせた。
