第3章 憎悪と恩寵と思慕
離れの奥には大きな池があり、離れから釣殿が突き出ていて、池の中島に小さな御堂がある。紫条家の朝は、この御堂への挨拶の儀式から始まる。晶子は釣殿から御堂の正面に座して心を鎮め、深々とお辞儀をした。そして、顔を上げるとそっと立ち上がり、舞い始めた。初めは、静かにゆっくりと、しかし、少しずつ速くなり、まるで神に取り憑かれたかのように舞う。
その姿は、まさしく天女の如しだった。その様子を池の畔の桜の木の陰から覗く者があった。舞が終わる。神が離れたかのように、ふっと静止した。そして、そっと再び御堂に相対して座すとお辞儀をした。
「そこで何をしておる、太宰。そなた、芥川と共に本部へ帰ったのではなかったか?」
晶子は、神懸かったように舞っていたにも関わらず、覗き見をしていた人物に気が付いていた。
「おはよう、晶子。途中で気が変わってね、芥川君にはお引き取り頂いたのだよ。タクシーを拾ってここまで戻ってきたという訳さ。」
「いや、それは良いが、何故そこの桜の木に縄を掛けておるのだ。もしやと思うが、自殺ごっこをするなら桜の木が痛むから止めては貰えぬか?」
と、太宰よりも桜の木を晶子は心配した。
「えー、婚約者«フィアンセ»殿のケチー。折角、桜の花が咲き乱れる中、美しい天女が舞っているのを見たら自殺したくなるに決まってるじゃないかー。」
と、太宰は口を尖らせながら、渋々桜の木から縄を解いた。
「はぁ…、全くそなたという者は…。まぁ、良い。折角だ、共に朝食でも取らぬか、我が許嫁殿よ。」
晶子は呆れたように笑うと、釣殿を下りて、太宰と洋館へと向かった。