第1章 初恋は金木犀
「…大丈夫?ごめんね。急に走ったりして。」
まだ息を整えきれてないを、心配そうな顔で見つめる。信号は赤に変わり、背中には車の走る音。なんとか渡りきれたみたいだったが、は、言葉にできずに、うんうんと頷いた。
彼は少し微笑みながらこちらを見ていた。走ったときにずれたのか、眼鏡を戻す。その何気ないしぐさに心臓が跳ねた。
「…ありがとう。……あのさ。」
「…ん?なに?さん。」
火照る頬より、整わない呼吸より、にとっては、未だに捕まれたままの腕が熱い。意識すると余計に恥ずかしくなる。
「…う、で。」
「…あっ。ごめん。」
困ったような笑顔で彼はぱっと腕を離した。今まで離してほしかったはずなのに、いざその熱さから解放されると、急に寂しくなった。なんとも言えない複雑な気持ちで彼を見る。「…痛かった?」なんて、私の心をまるで知らない彼の言葉に、ううんと首を降った。
手を繋ぎたいなんて。
お互いの微妙な距離感を察してか、彼は「さあ、帰ろっか」と何事もなかったように歩き出した。「お腹すいたね。」なんて話しかけられる。急に遠くなった背中が寂しくて、は彼に駆け寄りながら声をかける。後ろ姿にもやっぱりときめいた。
「…あのさ!白石くん!」
「なに?」
優しく笑って振り返ってくれた。その思いがけない笑顔にどぎまぎしてしまって、思わず顔が火照った。喉元にまででかかった言葉が引っ掛かり、うまく言えない。通行人が不思議そうに二人を見た。
「…さっきの」
「さっきの?」
「…腕捕まれたの、嫌、じゃなかったから。」
嬉しかったなんて言えっこない。精一杯の言葉に、なんの可愛げもないことくらい、でも分かった。苦しくて胸いっぱいに深呼吸すると、どこからか漂ってきた金木犀の香りがした。
「…わたし、こっちだから。
送ってくれてありがとう。じゃあまたね。」
顔が真っ赤になる。彼は動じてなさそうで、ずっと涼やかに見えた。それが余計に恥ずかしくてなかなかな顔を見ることができず、うつむいたまま話す。
「…嫌いなやつの腕とか掴まないから。
じゃあまた明日ね。」
え?と思って顔をあげると、ふいに彼と目があった。
優しい眼差しに、金木犀が香った。