第70章 遠い道のり
彼の顔には依然として、何の感情も感じられない無表情が貼りついている。
気まずい、尚更そう思っても電車内はすでに混雑しており、身体をその場で反転させることすら難しい。
次第に不機嫌そうな顔へと表情を変化させて、彼女を見下ろす轟は、一向に何も話さない。
そんな微妙な距離感と空気が二人を包む中。
二人が立っているドアとは反対側のドアが開き、一気に車両内の人口密度が上がった。
「中の方まで詰めてください!!!扉閉まります!!」
「…っ」
ドッと押し寄せた人の波に押され、轟がバランスを取るため、一歩向の方へと足を踏み出す。
無理に押し込まれた人の群れが轟の背に圧力をかけ続け、向を潰してしまうと咄嗟に思った彼は、ガッと彼女の顔の横に肘をついた。
「…悪ぃ、大丈夫か?」
一瞬の出来事に無表情ながら内心焦った轟は、無言を貫こうとしていたことすら忘れてしまった。
身体を密着させた状態で轟を見上げてくる彼女を見下ろし、目が合って。
「ーー……。」
『あ、ありがとう、大丈夫』
満員電車の暑さ故か、頬を赤らめている彼女にまた視線をそらされてしまった。
轟はムッとして、後ろに引いていた片足を彼女の両足の間へと滑らせて、重心をその足に移して身体を寄せた。
『…近いし、あ、ついね…』
「……。」
距離を望んで詰めてきた確信犯に抗議してくる彼女の首筋が、じんわり汗ばんでいるのを眺めて。
轟は右手を向の首にあててやった。
『つめたっ…』
ビクッと身体を震わせる彼女の髪から、シャンプーの良い匂いがした。
その嗅ぎ慣れない香りに、一瞬。
保須で、彼女を組み敷いた時の情景が轟の目に浮かんできた。
「……。」
轟の右手が、彼女の首筋を辿って頬へと移動する。
微かに顎を持ち上げられるように、轟に誘導され。
身体が熱く火照っている彼に、吐息がかかる距離で見つめられた。
「…こんなに近くで見るの、久しぶりだな」
轟は彼女の唇を眺め、その下唇を親指でなぞった。
ハッとした向が俯いてしまったのを見て。
彼は頬を赤く染めたまま、苦しそうな顔をした。
見上げてすら来なくなった彼女の冷たい態度に。
「………………悪ぃ」
轟にはそんな一言を絞り出すことすら、精一杯だった。