第3章 何事もほどほどに
2人の元へ相澤が歩いてくる前に、顔面にジャージを巻いたまま、向は校舎へと駆け出した。
脱兎のごとく逃げ出したと思しき生徒に、怪しむ視線を向ける相澤。
「あっ、先生!向さんは、その、鼻血が出たみたいで、顔洗ってからまた来るそうです!」
「……教師に伺いも何も立てずにか?」
「…えっとそのぉ……」
ザワッと相澤の周りの空気が不穏な方へと向かっていくのに気づいた飯田は、咄嗟に「あっ!」と声をあげた。
「それは彼女もわかっていたようでしたが、他の生徒のテストに差し支えるのを気にして、俺たちに伝言を頼んでいったんです」
「…へぇ?」
短く、威圧的な声を発する相澤の心情が読めず、葉隠と飯田の背筋に冷や汗が伝った。
「…!」
一箇所に集中して、足下の地面が濡れていることに気づいた相澤は、じっと飯田の腕を眺めた後、それ以上は何も言わずに50m走のレーンへと戻っていった。
葉隠と飯田が、早足で待機生徒たちの組に戻る。
「「………はぁ……っ」」
2人揃って止めていた呼吸を、大げさに再開させた。
その様子を見ていた、左眼の辺りに火傷痕のある特徴的な容姿の少年が、飯田に近寄ってきた。
「なぁ、あいつどうしたんだ」
「……っ…彼女は…その……少し、鼻血が出てしまったようで、顔を洗いに行っている!」
「…少し?」
少しにしちゃずいぶんと派手な模様だな、とその少年に指摘され、飯田はようやく自分のジャージに向の手形が残されていることに気がついた。
「なんだこれは!?」
「…今気づいたのか。50m走で鼻血って、おかしいだろ」
「それは…どうしてなんだ、葉隠くん」
「あっ、ぶつけちゃったって言ってたよ!」
疑問符を頭に浮かべる少年と、飯田が顔を見合わせる。
「そもそも、向さんは一体どんな個性なんだ?俺はスタートを見ていなかったから知らないんだが」
「わたし、ぶわって風が吹いたことぐらいしかわかんなかったなー。あっ、あとね」
ゴールした後、透明な壁みたいなのに、ぶつかったみたいに見えた!
「「…………」」
透明人間が見た、透明な壁。
ややこしくなってきた情報量と、担任に嘘をつくという自分がしでかしてしまった初めての大罪に飯田は打ち震えながら、頭を抱えてのけ反った。