第3章 何事もほどほどに
「なんだあのスピード!?」
「飯田さんと良い勝負ですわ…」
飯田の近くに立っていた生徒のうち誰かが、そんな感想を口にした。
向は地面に少しだけ倒れるように身体を保ったまま、両手両足を投げ出し、ミサイルのように風を切り、50mを飛び抜いた。
そして、ゴール地点をわずかに越えたところで急停止すると、身体を地面に下ろし、何歩かよろけるように歩いて、立ち止まった。
「ーーー秒76!」
記録を伝える相澤の声が、かすれて聞こえてくる。
1位だと確信しつつあった飯田は、その結果が気になって気になって居ても立っても居られない。
テストが終わり、数分経つのに、ゴール地点付近でしゃがみ込んだまま、待機場所へと戻ってこない向を迎えに行くことにした。
「向くん、終わった生徒は向こうの…」
「あっ、飯田くん!ティッシュ持ってない?」
「ティッシュ?どうしたんだ」
近づいてきた飯田に気づいたらしい葉隠が、焦っている自分の心情を表現しようとしているのか、ジャージをバタバタとさせながら駆け寄ってきた。
ゴール地点から少し離れて、邪魔にならない場所にしゃがみこむ向の顔を覗き見る。
「……なっ……」
飯田と目を合わせた彼女は、真っ赤に染まった両手で鼻を押さえながら、真っ青な顔で『大丈夫…大丈夫』と繰り返す。
せっかくの新品ジャージの胸の辺りは鮮血で染まり、グラウンドの地面にも数カ所、血が滴り落ちてしまっていた。
「ものすごい出血量だぞ!?鼻血か!!?」
『大丈夫……もう戻したから…』
「戻すって何を!?」
『鼻を…』
「鼻!?」
『大丈夫だから…キミ、ティッシュ持ってない?』
「ティッシュどころの騒ぎじゃないだろう、まず、医務室へ行こう!」
相澤を呼ぶ飯田の腕を、向が掴んだ。
べっとりと飯田のジャージについてしまった自身の手形の跡を見て、向は『あ』、と短く声をあげて手を引っ込める。
しかし彼は、引きとめられたことに気づいて振り向きこそすれ、ジャージの汚れに目をくれることはなく、そのまま「どうして止めるんだ!?」と向に詰め寄ってきた。
『どうしてって…テスト受けないと』
「そこまでひどい出血で運動は無理だ、別日にまた改めて貰えば良い!」
『いや、それは無理だよ』