第1章 たとえば、君に名を呼ばれる倖せ【名探偵コナン/安室 透】
――助けて。
――助けて。
――助けて。
『彼』の名前を呼ぼうとして。
けれど、私は彼の名前を知らなかった。
* * *
人気(ひとけ)のない路地裏の廃ビル。
無理やり自動車に押し込められて連れて来られた先で、詞織は乱暴に窓際の壁に放られた。
やや埃っぽい室内は、階段をいくらか上ってすぐの部屋だ。
そして。
「歌え!」
「え、え……?」
血走った目で見つめられ、詞織は何を言われたのか分からない。
だが、三人の男たちは本気らしく、胸ぐらを捕まれ、強く揺すられた。
「早く歌えよ! あのときみたいに!」
「ア"ァ! 頭がおかしくなりそうだ!」
「早く……早く……!」
何なんだ、この男たちは。
意味が分からない。
怖い……怖い……!
「早く! 何でもいいから歌えよ! あの日から、アンタの歌が聴きたくて、気が狂いそうなんだ!」
知らない。
そんなの知らない。
助けて。
誰か。
助けて。
助けて、助けて、助けて!
恐怖から涙が溢れた瞬間、脳裏に褐色の青年が過った。
たくさんの嘘と隠し事で自分を鎧う、どこか寂しい雰囲気の青年。
自分は彼を何も知らないけれど。
――「……あなたは……この国が好きですか?」
その言葉の裏に隠された想いが。
あの日、握り締めた手のひらと、自分の身体を包んだ温もりだけが。
私の知る真実。
不意に、男の一人がガンッと部屋の机を蹴飛ばす。
「ゃあ……ッ!」
怖い、誰か!
「助けて」
「早く歌えよッ‼」
「助けて、安室さん……!」
そのとき、微かに音が聞こえた。
首だけ振り返った窓の外に、風になびく金色の髪が見えた気がする。
それだけで、強ばった身体の力がわずかに抜けた。
「詞織さん! いるんですか⁉」
今度ははっきりと、声が耳に届く。
その声が男たちにも聞こえたのだろう。
誰か来た、と口々に騒ぎ始めた。
詞織は軽く息を吸い込む。
この場所を。
この想いを。
あなたへの想いを。
この歌声に乗せて。
「……――――……」
* * *