第20章 Omen…
「行って来るね」
仕事用のスーツに着替え、テレビのお笑い番組に夢中になる智の背中に声をかける。
でもテレビの大音量に掻き消されて、俺の声が届いていないのか、智からの反応はない。
「智? ねぇ、智ってば…」
いつもなら玄関先まで見送ってくれるのに…
俺は床に転がっていたテレビのリモコンを拾うと、電源ボタンを押した。
するとそれまで騒々しかった部屋が、一転静寂に包まれた。
そしてゆっくりとし動きで振り返った智が、それまで見せたことのないような、怒りに満ちた顔で俺を睨み付けた。
「返せよ…」
「えっ…?」
背筋がゾクリと凍り付くような…感情のない声に足が竦む。
「返せってば…」
「さと…し…?」
差し出された手の先で、俺を見据える智の目が…
怖い…
それでも俺はリモコンを持った手を背中に回すと、首を横に振って見せた。
多分、それがいけなかったんだろうね…
物凄い勢いで立ち上がったと思ったら、あっという間に俺を床に押し倒し、馬乗りになった智が拳を振り上げた。
殴られる!
俺はギュッと目を瞑り、歯を食い縛った。
数秒とおかずに俺の頬を襲った痛みに、涙が溢れた。
いや、痛みからじゃない…
殴られることなんて、ガキの頃から慣れてる。
ただただ悲しかった…
悲しくて、悔しくて…
俺の手からリモコンを奪い、テレビに向かう智の背中を横目に、俺は部屋を出た。
せっかく光が取り付けてくれた近藤と会う機会を、無駄にすることは出来なかった。
ふらつく足で車に乗り込んた俺を、薮が驚いたような顔で見つめた。
「どうしたん…ですか?」
「何でもないよ…」
「でもその顔…」
言われて俺は指の先で唇の端を拭った。
「痛っ…」
チリッとした痛みと、ドクドクと脈を打つように痛む頬…
薄暗い車内で見た指先は、赤く染まっていた。
「まさか、智さんが…?」
「違うよ…、出がけにすっ転んじゃってさ…」
智に殴られた…、なんて言いたくなくて、俺は咄嗟に誤魔化した。
そして、
「やばいな…。これじゃ当分仕事出来ないじゃん…」
自嘲気味に笑い、目の端に溜まった涙を、赤く染まった指の腹で拭った。