第73章 キルアの冒険
落ち度は、誰にでもある。誰でもする。
だが
だからと言って、人を殺していい要因にはなり得ない。
余裕のない人へ、無抵抗な人へ、怒る気力も逃げる気力も残されてない人へ、
追い打ちをかけるばかりか、それへの嬲り殺しを正当化してサンドバックするから、地獄落ちとなる。
背景が違うものを、同じ常識を持つものとして扱い、一所に集めるからこそ、同じもの同士で群れ、タッグを組み、一般と異なる家庭事情を持つ孤立したそれを痛め付ける。
だからこそ…ケイトは、こう定めた。
「同じ常識を持つものと扱うなかれ。
自分の持つ価値観、常識を、他へ押し付けるなかれ。
異なる個と認め、接する上で個を知ってゆき、色眼鏡で見たり決め付けて目を曇らせるなかれ。
目を曇らせることは、他も、己も、心を曇らせる一因となる。
決め付けは、個と向き合っているのではなく、己の思い描くイメージとしか向き合ってはいない。
努々忘れず、心すべし」
人による、つもりを理解できるのはやった本人、自分だけ。
理解して欲しいから、合わせて欲しいから怒る。
好き嫌い、価値観、重きを置きたい部分も皆違う。
謝って欲しいだけ。
でも本人にそのつもりはない、悪いことをしたつもりはない。
本人にしかわからないそれを、聞かず、知ろうともせずに、知る前から決め付けるものが非常に多い。
実際には、素直になれない人もいる、恐怖症で謝りたくても謝れない、声を出したくても出せない、やりたくてもやれない人もいる。
だから、お互い様、お会い子、ぐらいの感覚、認識でとらえた方がお互い楽。
フォローするのは勝手だが
そのイメージの押し付けで、傷付いている人、自殺する人も出ることを心すべし。
殺された立場にある人からすれば、『殺した人を優しい人と言われること』は『凶器』でしかない。
もし囲まれて矢継ぎ早に言われ続ければ、拷問、生き地獄と化す。
おかしいのは己だけだと自らを責め、その環境を苦に、絶望し、自殺に至ることが多い。
そして…生き地獄にした側が同じことをされると、途端に声高に責める。
何事にも限度はある。
いい人だと庇うにも、限度がある。
その線引きを超えるほどの悪行(殺人、暴行、器物損壊)をした上で、
繰り返し続けること、繰り返さないよう一向に努めず笑い続ける人が、
庇われるに匹敵するとは言い難し。
