第70章 新天地
神々が評するは、在り方。
わかりやすく一言で言ってみれば『人間性』だ。
行動をするにおいても、その内のものまで全て反映される。
神々に見通せないものはない。
嘘は付けないし、見抜かれる。
魂にも刻まれ、正当な評価を受ける。
正当化する為に大層な理由を掲げ、
何でもいくらでもして、笑って、最小限にしようと、繰り返すまいと努力もしない。
そんなことが罷り通ることは一切ない。
あってはならない――
傍から見れば、身内からすればどれほど善人でも、それ以外から見れば最低なことをしている。
そこが下った沙汰の真相だ…
考えてもみて欲しい…
人のものを壊して、また壊せる人は、人としての礼儀があるか?
人を傷付けて、人を殺して、傷付けたくない殺したくないと口だけで言いながら、最小限にしようともせず、傷付け殺し続ける人へ、力を貸すのは当然か?
一方的に己の要求だけ、勝手だけを力尽くで押さえ付けて通し、
それによって泣き寝入りさせられている人を、その人達の心境も感情も考えず、
力を貸してくれる仲間、とすることは、正しいか?
そんな人を善人とし、他の見方や被害や感情を全て無視し、度外視し、
己と身内以外の全てを害し、己と身内だけ居場所さえ守られ、笑ってさえいればいいか。
力だけで解決し、一件落着と後のことも考えず、己と身内だけ守られた居場所と道で笑う。
何の解決にもなってないのに、泣き寝入りさせられる側はたまったものではないのに、
それを軽視し、いい加減なやり方を続け、それを「人としての優しさ」を持った善人とするのか。
後悔の方向性が全て、己に関することだけで、
死ぬ気状態の記憶がありながら、壊されて泣き寝入りしている人の心境も考えず、
「繰り返して壊し続けていること」「無関係の人を泣き寝入りさせ、泣き寝入りする人を増やし続けていること」に決して向かない。
目も、意識も、後悔でさえも…
それさえも正義であり、善…
正直、見ていて不愉快なだけだ。
人としての礼儀からなっていない。
人のものは壊さないぐらい4歳以下でも学んでいる。
最低限の常識もだが…
いい人だから、そんな人ではないから、守らなくてもいい、無罪、という理屈には決してならない。
ケイトがそこに気付け、歪みの影響も完全に抜けたのだから…それだけでも良しとしよう…
