第70章 新天地
皆の為、世界の為、
「大義名分」となる理由を表向きに出し、どんな言動も何もかもを善行とする。
それが正当化だと思いもせず、頑なに善行とし、いい人とする。
実際には…殺さなければ世界が救われない等という苦渋も懊悩も一切していない。
怒り任せの殺しであっても…後に世界が救われたと知ってから善行と強引に結ぶ。
殺したくない傷付けたくない、だが流れでしたとしても一切窶れもしなければ鬱になったりもしない。
いくら勝手を力尽くで押さえられても
彼とその身内の為だけに、都合だけの為に駆り出され、力を貸さなければならない。
それを強引に現実とした結果、世界そのものの歪みとなる基点となる彼の魂が生まれ、破滅の導き手となってしまった。
歪みを無い状態となるよう魂そのものを生まれ変わらせるという手もあったが、いずれにせよ世界を破滅に導く点は変わらなかった。
全て結果は同じ…
なので、消す以外やりようがなかった。
決して粗末にしている訳でもなければ、必要悪でなく必要消滅だっただけに過ぎない。
存在するだけ百害あって一利なしだった。
だからこそ…「私刑」はしてはならない、と定められてもいる。
人が、人を裁いてはならない。
法だけが、人を裁いてよい。
人が勝手に手を下してはならない。
然るべき処置を下すのは法で裁いた後、その資格を持った者達でなくてはならない。
なお、あの世に帰っても神から裁かれるので…最初からしないのがベストだ。
寧ろあの世の方が厳しい、
逃げ道が一切ない上に声から逃げる時間も与えられない。
神国の住民たるもの、神聖を抱くべき…という規範もあるのだが要約すると…
「神聖」とは…世界全てを滅することが出来る程の闇をも抱えながら、そんな闇を人へ決して与えさせない強い信念、闇を原動力としてより強い光へと転じさせるもの。
それに伴い、浄化の力、神気が人一倍桁外れに、神に匹敵する程強くなる。
ケイトが常に体現しているそれを、皆も体現するよう心掛けよ、という内容だ。
「願う」時は自然に手を組み、「祈る」時は自然に手を合わせる。
願うは欲求、自分の為も、相手の為も、含めて言い、
祈るは感謝、どうかこれからも見守っていて下さい、という念とされており
ケイトは、『敬虔なる使徒』の神様として、神殿の像にもなっていた。