第48章 死
遊びで多数で群れて行動するのはOK。
だが、意見をぶつける際に多人数で囲んでするのは「犯罪行為」と定めている。
何故そう思ったか、どうして欲しいのか、本人はどう在りたいか…
それらを見つめ直し、その上で互いにとって兼ね合いを取るということが定められている。
しかし、それでもなお譲れない部分であれば無理して一緒に居ようとする必要はない。
無理に合わせず、合う人同士で共に居ればいいとも定められている。
人と距離を取るのは自己中ではない。罪でもない。
合わせようとしても合わない、共に居るのが辛いのならば距離を取るべきだ。逃げていい。
追い掛けてくるのならば理由を伝え、改善できないのならば互いの為と距離を置くべきだ。
余裕がない際にも、無理に付き合う必要はないと定められている。
本人が意見を言えたとしても、環境起因であって言えないほど余裕がない際には、本人が言いたくなるまで、余裕が出来る時まで待つ。とも定められている。
二度と、多人数の為にという理由で「苦しめられる人」を出したくない。
そういう思いから作られたこの制度は、僕達がいなくなってから千年が経った後もなお続いていく。
いじめに対する認識を変えること。もまた義務付けられている。
いじめとは、こういうものである。
味方など一人も居ない状況下に追い込む。
多人数で囲う、同じ意見を口々に言う。お前が悪いと嫌がらせ行為をする。
家族に言う。
チクったと批判する。
先生に助けを求める。
チクったと批判する。
集団に意見を言う。
可笑しい、狂っている、間違っていると口々に集団で言う。
一人の状況下で言ってもなお、高圧的にお前は間違っていると言う。
いじめに巻き込むな、とばかりに保守的にいじめ側に回る。誰一人として助ける人はいない。寧ろ後押しする人しかいない。
そうしていじめられた側にはどんな傷が残るか、その実例がケイトとも言える。
人を見るだけで恐怖を抱く、囲まれるだけで恐慌状態に陥る、対面で話せない、声も出せない、意見も出せない、今後の人生において多大な障害を残す。
それが気に食わない、先にやってきたからやってもいい。自分は間違ってない、正しい。
それでやってもいいという理屈を抱いているのなら、同じ目(いじめ)に遭わせてみよう。
それで考案されたのが処刑方法だ。