第4章 牡蠣殻磯辺
苦しい。ただ怠くて苦しい。
血が抜けて限度が近くなるとこうなる。体を丸めても横になっても縦になっても一向楽にならない。
怠い。怠くて死ぬ。怠いのがこんなに辛いものだと、伝えたくても上手く伝えられない。相手が人の体に通じていれば話は早いのだが。
血が止まらない事を知らず、傷や怪我もなく過ごした本当に幼い頃が懐かしい。芯から笑って周りに甘え、可愛がられていた記憶は掠れ気味であっても消える事はなかった。
甘い記憶だ。
朝起こすとき、母は必ず私の額に手を当てた。小さな私が急に起き上がって目を回したりしないように。山谷を巡って薬石を採取する手は硬くカサついていたが、私はその感触が大好きだった。
不在が多い父母の帰りは常に朝、朝餉の匂いと山の匂いが二人の帰宅の印だった。
米の炊ける芳しい匂いと沸き立った湯に解かれた味噌の匂い、何より、父母の山の匂い。私は布団に潜り直して、幸せを噛み締める。もうすぐ母がオデコに手をのせてくれる。父が笑いながら寝坊助めと抱き上げてくれる。一頻りじゃれ合って、それから三人で食卓を囲むのだ。
母は土産に何時も、何時も花を、でなければ色鮮やかな木の実を、常緑の小枝を、下生えのまた下にある不可思議な苔などを持ち帰り、見るも楽しいそれらの特性や薬効を御伽噺や昔話を交えながら語ってくれた。
私に山の恵みの得方を教えたのは父だ。まだ幼い私を伴いながら失せる事をせずに敢えて山道を行き、詳細に薬石の在り処を伝えてくれた。
小さな水晶の欠片の在り処、死を悟った獣の骨が眠る谷、毎年其処にしか生えぬ薬草、条件が揃って稀に採取出来る変種、虫が寄生することで薬効の変わる木の実や瘤、沢沿いの洞窟に……
洞窟の中に入って……、酷く暑くて……
…あれは、何だった…?
麝香に似た奇妙な香りと硫黄の劇臭、噎せ返るような蒸気。汗だくになりながら見たあの洞窟に湧く源泉の周りにみっしりとへばりつく様に繁茂していたあの……苔……?
フと今の辛さが何時もの辛さと違う事に気付く。慣れた辛さではなく、更にザラつく不快感を伴った苦痛。足りない。足りないものがある。それがなければこの苦痛は去らない。不安だ。辛い。怠い。苦しい。苦しい。悲しい。辛い。辛い。辛い。
…辛い…。
頬がスウスウした。
泣いていたらしい。…薬を呑まなければ。
でも、どっちの薬だ?