第1章 薬事場の三人
山中の里の一画、繁華地に程近い場所なのにここは仄かに潮が匂う。
自分が身を置いていたときには気付かなかった。
これは磯という小里の匂い。
定住しない隠れ里の持つ匂いだ。
元が磯辺リにあった里だったからだろうか、在郷の地を捨て彷徨って随分経つのに、磯は未だに潮を匂わせているのだ。
朝早いのにそちこちの家々から人の立ち働く気配がする。
初冬の寒い空気の中、人恋しさを誘うような火の気の香りが漂う。
朝の作業をしているのだろう。
一晩表に晒して朝露を浴びた草木を取り込んで火の気に晒し、煎じる。
明け時から昼までかけて煎じ詰めて希釈して用いる内服薬と、煮残った根草を刻んで煎り抜き、粉に潰して外用薬にする。
これに朝飯の煮炊きの匂いが交じると、懐かしさに息が詰まるような心地になる。
磯で過ごした思い出が噴き出して足が止まってしまう。
他里に移った磯人が本草の技を活かして暮らすこの場所は薬事場と呼ばれている。
今は木の葉という強く大きな里の庇護に預かり、定住している昔馴染みの磯人たち。
本当に近しく親しむ事は出来なかったかも知れないが、相応の関係を築いて相応に睦み合って来た人たち。
フと見透かすと里に迫る山肌に木の葉を治めた歴代の火影の顔岩が薄明に深い陰影を刻んで在る。
「…成る程。木の葉だな…」
以前慌ただしく訪れたときは、顔岩を気にする暇がなかった。
木の葉を象徴するこの顔岩は、定住する事を止めた磯の対局に在る大里を直裁的に表すもののように思う。
磯を治める磯影は、これを見て何を思うのだろう。
…ヘコむな。あの人はヘコむ。
そして内向する。静かーに何を考えているのかよくわからない顔で、昼行灯の通り名を遺憾なく利用して、じーっと色々くよくよするだろう。あれもこれも全部良いものなど何処にも無いのに、在る筈だと思い込んでしまっている節が、波平にはある。
さて、決まり悪さに任せて波平様を置いて来たのはいいものの、ここからどうしたものか。
現磯影である浮輪波平の茫洋とした半眼を思い浮かべながら、牡蠣殻磯辺は腰に手を当てた。背筋を伸ばしたら、咳が出た。
「取り敢えず火影様にお目通り願うのが妥当かな」
口元を払って牡蠣殻は腰に当てた手を胸で組んだ。