第5章 【徳川家康】日和姫
突然思いもよらず放たれた、この旅の間、ずっと己の心の内を占めていたその事柄に。
千花は何も返せなくなり、ぐっと押し黙る。
そして、やっとの思いで…何故それを、と小さく返す。
風の噂に、と家康ははぐらかすように答えた。
「漸く、嫁に行く気になったの」
「…元々、嫁に行きたくなかった訳ではありませんから」
「なら何故、今まで行かなかったの」
「良い殿方が、おりませんでしたからっ…」
問い詰めるような家康の口調に、吐き出すように答えを返す。
その間にすっかり血は止まったらしく、家康は懐から出した手拭いを細く割くと、千花の指を縛った。
手当が終わった指は、分かたれる。
急に襲ってくる寂しさに、また千花は唇を歪め、俯いた。
「好いた相手が居たから、じゃないの」
そして、また頭上から降ってくる、家康の声。
「其奴に振り向いて欲しくて、ずるずると過ごしている間に、色んな男の求婚を断ってきたんでしょ…そう、風の噂に聞いたけど」
千花は、『風の噂』の主が誰なのか確信し。
恥ずかしさで速まる鼓動に痛む胸を落ち着けようと、身体の前できゅっと両手を組んだ。
小刻みに震える体は、きっと弱々しく彼の目に映っているに違いない。
しかし何年も着込んで来た化けの皮は、そう簡単に剥がれない…
何とか一矢報いようと言葉を探しながら、おずおずと千花が顔を上げると。
家康の顔が高揚からか、少し赤らんでいるのに気付いた。