第8章 【明智光秀】拈華微笑
「では、光秀様」
「あぁ。ゆるりと身体を休めよ」
漸くたどり着いた、町中の宿屋の一室に入り。
見張りの交代を告げ、部屋から家来を追い出す。
古びた部屋で一人、窓辺に腰掛け。
隣の物音に気を配りつつ、外からの出入りを伺う――
顔色が悪い、と家来に心配されるなんてまだまだだ、と。
自嘲するも、靄は晴れずその代わり。
段々と上ってきた日が麗らかに春めき、今日も良い日和だ。
隣の部屋からは相変わらず、物音一つ聞こえてこない。
するとその時また、大通りの角を曲がってくるのは――
「…千花…隣にいるのは、秀吉か」
秀吉に促され、角を曲がってすぐの甘味屋の店先、紅い傘の下に腰掛ける。
一定の距離を保ってはいるが、隣に並び。
千花が身振り手振りを交え、一生懸命に語りかけるのを秀吉が聞いてやっているような格好だ。
何やらしょんぼりと肩を落としたらしい、千花の頭を。
秀吉が撫ぜてやろうとするのに、思わず目を背ける。
そうしてじっと集中し切っていた耳に、微かに。
「信長」と名前を口走る僅かな声が、隣の部屋から聞こえてくる――
はっと顔を上げ、壁に耳を欹てる。
確かな謀叛の相談話に聞き入りながら、空いた手で周りの家来に動くよう伝える為の、赤い布を窓から垂らす――
俄にざわつきだす、町をまた見下ろしてみると。
先程の場所にもう、千花と秀吉の姿は無かった。