第10章 まばたき●
リビングのドアを開けると、デミグラスソースの芳醇な香りが漂ってきた。
「おかえり。」
キッチンからはエプロンを着けた佐久間さんが顔を出す。
今日は貴重な休日。
3月までのホールツアーを終え、アイヴィーは6月の武道館公演を控えるのみとなっていた。
「美波、ビーフシチュー好きでしょ?」
「あっ…はい。」
「スタジオの近くに新しいパン屋が出来てさ。
高杉がそこのバケットが美味しいって言ってたから買って来たんだ。
ビーフシチューに合うと思って。」
佐久間さんはこうして時々手の込んだ料理を作ってくれた。
一人暮らしが長かったせいか、一通りの物は作れると言っていた。
こうして愛する人が食事を作って待っていてくれる。
何て幸せな事だろう。
先ほどまでの卑屈な心を恥じる。
彼女には彼女の“世界”があるように、私には私の“世界”があるのだ。