第1章 明日も笑おう
一週間後、再び彼女の家に行った。
ピアノの部屋には白いテーブルと白い椅子。
そして黒と赤のコーヒーメーカーが置かれていた。
家具が増えたにも関わらず、やはりその部屋は現実世界から切り離された空間だった。
「リクエストはある?」
「えっと……か、カノン!!」
「ヨハンの曲ね。アニメ好きの君にしてはよく知ってたわね」
ふふっといたずらっ子のように笑う彼女。
椅子に座って、軽く息を吐いた。
そして瞳を閉じるとゆっくり鍵盤を叩きはじめる。
優しい音色。
美しい旋律。
沁みわたるそれらに俺も瞳を閉じた。
"カノン"がどういう音楽は知らなかった。
聴いて初めて、「ああ、"カノン"はこれか」と何度も聴いたそれに気が付いた。
結婚式、卒業式、離任式とかによく流れている。
音楽は言葉ではない。
メロディーを言葉にすることもできない。
でも、なぜだろうか。
この曲は、彼女が弾く"カノン"には、なんともいえない朗明美しく、それと同時に微妙な哀愁を感じさせるメロディーとハーモニーがある。
音楽はこんなにも美しいのだと気付かせてくれる。
歌謡曲ばかり聴いて生きてきた俺には、クラシック音楽はこんなにも美しい世界を作りだすことができるのかと感激した。
ピアノの音が消え、静寂が生まれる。
しばらく目を瞑って今まで流れていた音を頭の中で、身体の中で再び響かせた。
ずっと残るこの音に、このまま酔いしれて溺れてしまいたい。
「他にリクエストはあるかい、少年」
酔いしれている俺に楽しそうな彼女の声が響く。
リクエストなんてもう……。
「……さんの」
「ん?」
「さんが弾きたい音楽が、聴きたいです」
「……わかった」
彼女は、また息を吐いた。
さっきよりも深く長く。
そして何か呟くと、息を吸って弾き始めた。