第10章 姫事/土方
「女の琵琶ははじめて聴いたな」
すると逢魔時の境内に、二本差の男がひとり現れた。
暗い寺の外廊下、釣燈籠の奥で、ひとり座していた女は撥を止める。
「…へえ。お座敷では弾くことがおへんのどす」
「どこかの置屋の者か。天神というところだろう」
「ようおわかりで」
「名は」
「はこいいます」
はこという天神は問われたことにのみ、ぽつぽつ答え、目は変わらず、おおきな楽琵琶に伏せられている。
釣燈籠のかたわらに座しているそのさまは、わけもなく、盲僧を彷彿とさせた。
「はこか、どこかで聞いた名だ……いや、邪魔をしたな。つづけてくれ」
「ほな、お耳汚しょう」
楽琵琶特有の、低く心地好い響きが、京の街の黒い影絵に染みゆく。
この風情が、この天神の感受する世界なのだ―――――発句を捻るよりもすんなりと、風情に身を投じているおのれに驚きを覚えながら、土方はそう直感した。
はこの世界に感染し、なにもかも鈍く輝き出す。
そしてはこはさきほどはなかった、謡を披露したのだ。
否、それは経の声明であった。
「―――――おおきに」
「これほどとはな」廊下づたいにしずしずと僧侶が現れ、燈籠を灯して回る。土方はしかし夕闇に溶け込もうとする影絵を、いまだ眺めていた。
「このごろの芸妓は経も諳じるのかい…いや、あんただけだろうな、だから気になるのさ」
はこは否定しない。
「あんたのこと、おもいだしたぜ。あらゆる楽器を操る天神の噂を聞いていたんだ、桔梗屋はこ。とくに三味線の名手だそうだが……」
土方は琵琶をかえりみる。
ふつう黒い装飾のある、撥を当てる部分はしかし白く、中央は撥でさらにぼんやり白く削れていた。「もう宵だぜ…なぜ座敷じゃなく、こんなところで坊主のようにしんみりしてるんだい」