愛慾の鎖ーInvisible chainー【気象系BL】
第13章 雲外蒼天
僕自身、葉山という場所がどんな所かは、そこに別荘があることすら知らなかったのだから、分からないけれど、澤がいてくれるなら…
それだけで心強い。
「潤様に感謝しないとね…」
本当は手紙でも認められればいいのだけれど、きっと手紙なんかでは上手く伝えられそうもない。
「お礼…言っといてくれる?」
「分かった。凄く喜んでいたと伝えておくよ」
翔君が固く握り合った僕の手の甲に口付ける。
僕はそれが擽ったくて、翔君の腕の中で肩を竦めた。
その時、不意に視界に飛び込んで来た景色に、僕の脳裏に幼い日の記憶が蘇った。
「ねぇ、止めて?」
「どうしたんだい、急に…。気分でも?」
「いいから止めて?」
「う、うん…」
背広の胸に縋って訴える僕に、翔君が当惑した様子を見せながらも、窓を叩いて御者に馬車を止めるよう伝えた。
車輪を軋ませ馬車が止まる。
僕は扉が開かれるのが待ちきれず、
「智…、待って…?」
翔君が止めるのも聞かず、馬車から飛び降り、橋の袂に聳え立つ一本の桜の古木に向かって駆け出した。
今にも朽ちてしまいそうな木肌に指を触れ、空を覆うように伸びた、すっかり葉の落ちてしまった枝を見上げる。
「まだあったんだね…」
郷愁にも似た懐かしさに胸が熱くなる。
「智…?」
じゃりっ…、と靴底が砂を噛む音がして、木肌に触れた僕の手に、もう一つの手が重なる。
「随分古い木だね…」
「…うん」
僕は声の主を見ることなく答えた。
そしてぴたりと寄り添うように立つ彼の胸に背中を預けた。
「この桜の木はね、僕が両親を亡くして、行く宛もなく彷徨っていた時に、偶然見かけた木でね…」
あの時はまだ、今よりもうんと若々しく、枝振りだって立派な物だったけれど…