愛慾の鎖ーInvisible chainー【気象系BL】
第5章 一栄一辱
部屋に降り、新しい羽織に袖を通し窓の外に目を向けると、東の山の端は夜の闇に縁取られ、哀しげな細い月がそれに負けじと弱々しい光を湛えている。
所詮‥そんなものだろう。
俺は食事を共にすることを楽しみに待っている弟の部屋の扉を、通り過ぎざまに軽く叩くと、中から弾んだ声で返事が聞こえた。
それはまるで遊びに誘ってもらえた子供のそれのようで、思わず微笑み(えみ)が洩れてしまう。
さらに勢いよく開いた重い扉から飛び出してきた翔は、俺の顔を見るなり、
「兄さん、部屋で居眠りでもしていた?あまりにもお腹が空いたから、澤に呼びに行かせたのに返事も無かったって。」
待ち遠しかったと声まで弾ませて、両手で背中を押した。
「ああ‥少しね。」
「近ごろはあの歌声がいい子守唄になってるの?窓越しによく聞こえてくるんだよ。」
翔はずんずんと俺の背中を押しながら階段のところまで来ると、一段下がった肩越しに興味ありげな瞳で顔を覗き込んでくる。
何の疑いも無い純粋な瞳。
俺からの愛情を当たり前のように享受し、誰からも奪われることの無い翔。
その醜さとは無縁の存在は、俺にとっても心許せるものであることには違いない。
「そうなのか‥。あの少年たちの無垢な響きは、心が安らぐ。」
だが‥それだけでは満たされない何かが、俺の中にあった。
「ええ。とても綺麗だもの。さ‥でも歌声じゃお腹は満たされないし、早く行こう?」
くすっと笑った弟は俺を追い越すと、軽やかに階段を降りて、食堂のほうへ歩いていった。
それを階段下で控えていた澤は微笑ましそうに見送っていたが、俺の方を見ると慌てたように頭を下げた。
「澤、いつも上手くやっているようだな。今夜は冷える‥部屋の暖炉に火を入れておいてくれ。そうすれば少しはあの部屋も‥頼んだぞ。」
畏怖なのか、昔からの癖なのか、小さく縮こまるように頭を下げる老婆に役目を与えてやると、更に丸まってしまうんじゃないかと思うほど、頭を下げた。
父上に奉仕させられて、使い捨てられるように俺に仕えている老婆は、服従することに何の疑いも持たない。
そうすることでしか、生きる術を見つけられなかった憐れな女だった。