第34章 イジワル上司の松野さん【トド松】
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「奥田くん、この資料、全部纏めておいて」
ドサッと紙の束が目の前に置かれた。顔を上げると、上司の松野さんが立っている。
「わかりました……」
「できるだけ早くね。どうせ君はミスるだろうから、あとで修正する時間も必要だし」
「はい……」
松野さんは不機嫌そうに頷くと席へ戻っていった。
隣の一子さんが「うわぁ……」と声を漏らす。
「ねぇ、松野さん、最近また奥田さんに冷たくない? 本当に酷いわね〜」
「そ、そうですかね……」
私は曖昧に返事すると、書類をめくった。二枚目に付箋がついている。
『好きだよ♡ トド松』
男性にしては丸っこい可愛らしい文字。でもそれこそ松野さんらしい。思わずニヤけた瞬間、向かいの席の男性とバッチリ目が合ってしまった。慌てて真一文字に口を結んで咳払いをする。
もうっ、松野さんってば! 嬉しいけど、名前入りでこんなメモを貼って、もし剥がれて落としでもしたらどうするの!?
そのとき、
「奥田くーん! ちょっと来て」
松野さんが私を呼んだ。
「はい! なんでしょう?」
私が来ると、松野さんはムスッとしながら画面を指差した。
「このデータ、また入力ミスしてない?」
「えっ! 本当ですか!?」
画面を覗き込むと、データどころか、数字さえない。代わりに『今夜あいてる?』の文字。
「っ!! す……すみません! 間違えました!」
私はドキドキしながら姿勢を戻した。
ちらりと周りを見ると、みんな忙しそうに手を動かしている。
何このスリル。ちょっと楽しい……。
松野さんは何食わぬ顔で大袈裟にため息をついた。
「ほんっと君って使えないね〜。急ぎの書類だから、残業してもらうよ? いい?」
「はい! 大丈夫です!」
「本当に?」
松野さんがデスクトップの影でそっと私の手を握る。
「本当に大丈夫です……」
緊張しながら答えると松野さんがくすっと笑う。
「じゃ、よろしく」
イジワルだけど、イジワルじゃない。怖がりであざとくてエッチで可愛い上司の松野さん。本当の松野さんを知っているのは私だけ。
「失礼します」
私は一礼すると、踵を返して歩き出した。上司との残業は今夜も遅くまでかかりそうだ。
―END―