第6章 宿望…
「兄…さま…」
智子が自分の唇を指の先でなぞり、小首を傾げて僕を見上げる。
僕はその時になって、自分が何をしたのかに気付いた。
僕は…
僕はなんてことを…
キャラメルの甘い香りが僕を惑わせたんだ…
そうでなければこんなこと…
智子の唇に触れたのは、何も初めての事じゃない。
一度だけ…たった一度だけ、眠っている智子の唇に触れたことはあった。
でも今は違う。
ああ、僕は一体なんてことを…
「す、済まない、智子…」
「あら、どうして謝ったりするの?」
「そ、それは…」
「ふふ、私知らなかったわ。兄さまがこんなに食いしん坊さんだったなんて。私のお口ごとキャラメルを食べてしまおうなんて…」
くすくすと肩を揺らして、智子が手に持っていたキャラメルの箱を、僕の手に握らせる。
「えっ…、これは智子のために…」
怪我をして退屈しているだろう智子を思って買って来た物なのに…
「いいのよ、兄さま。私はこの一粒で十分幸せよ?」
智子の両手が、キャラメルの箱ごと僕の手を包み込む。
ああ…、なんて暖かなんだ智子の手は…
僕の冷えた心が温度を取戻して行くようだ。
「さ、そろそろお部屋にお戻りになって? 母さまがいらっしゃる頃だわ…」
ふと壁の時計を見上げると、もう間もなく九時を告げようとしていた。
「そ、そうだね。じゃあ僕は戻るよ」
智子の手をそっと解き、僕はベットの端から腰を上げた。
「兄さま…、智子…一瞬だけど、とても幸せだったわ…」
そう小さく呟いた智子の頬に、涙の筋が光っていたことなど、この時の僕は全く気付きもしなかった。
いや…、本当は気付いていたんだ。
でも気付かない振りをしていた…自分を抑えられなくなりそうで…
『宿望…』ー完ー