第4章 番外篇・僕と『ヒゲ』
『かなわないな』
いよいよ競技シーズンが始まり、試合を控えた選手達の練習にも熱が入ってきたある日、リンクで藤枝にしごかれて涙ぐむ1人の男子選手を、純は休憩中に慰めていた。
「ヒゲが口悪いのは、いつもの事や。僕も覚えがあるけど、コーチは見込みのないコを叱ったりしいひん。君を信じとるから言うんや」
「はい…」
「それと、さっきのスピンの…」
「おい、休憩終わる前に無駄に流した水分補給しとけよ」
「ヒゲも、子供相手に大人気ない追い打ちかけんとき!」
「…お前がそうしてる間も、ライバル達は皆歯ぁ食いしばって練習してんだ。どうすんのかはお前次第だぞ」
続けられた言葉に純は口を閉じ、その選手は手で涙を拭うと、頷きながら一旦リンクを後にした。
「お前が口下手な俺のフォローをしてくれる事には感謝してるが、俺の指導に口出しはするな」
「ヒゲが無神経な事ばっか言うからやろ。スパルタ一辺倒とか、アンタや僕の頃とは時代が違うんやで?」
「それでも、選手自身で考えて決めなきゃいけない時がある。何でも大人が先回りすりゃいいってもんじゃねぇ」
「せやけど…!」
「ただでさえ、男子の競技人生は短い。できる限り悔いのないようやり切って欲しいと俺は思っている」
「お前もいつも『自分の二の舞になって欲しくない』と言ってるだろ」と突っ込まれた純は、膝の大怪我から一時全てを投げ出していた競技者時代を思い出すと、僅かに俯く。
やがて、戻ってきた選手が「藤枝コーチ、お願いします!」と力強く声を発したのを見て、「かなわんなあ」と口中で呟いた。
練習終了後。
生徒達とリンクの穴埋めや片付けを済ませた純は、最後の生徒と保護者を見送った後で、帰り支度をしている藤枝に近付いた。
「ナオちゃん、今夜は親子丼が食べたい」
「…帰ったら、鶏のもも肉を解凍しろ。三つ葉はナシでもいいか?」
「大通りの八百屋さんとスーパーなら、まだ営業しとるから買うて。もう遅いし、今夜はビール禁止や。代わりに、糖質気にせんでええハイボール作ったるから」
思わず自分の腹に触れる藤枝に、純はくすりと笑い声を漏らすと、踵を返す。
現役引退してもなお、体型維持を怠らない純の端正な後ろ姿を眺めながら、藤枝は「かなわねぇな」と苦笑交じりに零した。