第4章 番外篇・僕と『ヒゲ』
『流れ』
藤枝とのレッスンも大分慣れてきたオフシーズンのある日。
彼にアウトドアに誘われた純は、そこでとてつもない自然の驚異に晒される羽目になった。
「さっさと漕げ!ロクに進んでねぇぞ!」
「いきなりカヌーなんか乗せられたら、誰だってこうなるわアホンダラ!」
タンデムカヌーの後ろから檄を飛ばしてくる藤枝に、純は負けじと声を張り上げる。
夏とはいえ川の激流と冷たさは、2人に容赦なく襲い掛かってきた。
「そらアンタは、昔からアウトドア慣れしとるかも知れへんけど、僕は生まれてこの方遠征や試合以外には、ロクに京都の街を出た事あれへんねん!ボートかてせいぜい子供の頃乗ったペダル式のヤツと、宝が池の…はぁ」
「元カノとの思い出か。あのボート漕げんなら問題ないだろ」
「宝が池と川下りを一緒にするな!僕みたいなトーシロが大自然相手にミスったら、即お陀仏やんか!」
「俺がいるからそうはならねぇよ」
その声に、純はらしくもなく鼓動を早める。
例の失恋騒動以降、時折純は妙に藤枝を意識してしまうのだ。
「それにマジで危険な時は、カヌーの管理者から中止される。流れに逆らう必要はねぇけど、自分の力で川の流れを掴んでみろ。ちゃんと見ててやるから」
どちらにせよこのままでは解放されないし、この男を心の何処かで頼りにしている自分を忌々しく思いながらも、純はパドルを握り直すと再び漕ぎ始めた。
(力任せにやってもアカン。スケートと同じや。タイミングと角度と呼吸とリズム…)
藤枝のアドバイスを脳裏に反芻させる純の動きは、次第にスムーズになっていった。
純の飲み込みの早さに内心舌を巻くと、藤枝もまた彼の背に声をかけつつパドルを操る。
やがて無事に下流まで到達すると、純は一息吐いた後で、視界に広がる大自然に目を見開いた。
「わぁ…!綺麗やなあ」
右頬に笑窪を作った無防備な純を見た藤枝は、柄にもなく胸を躍らせる。
(俺は、思った以上にコイツの事を…?)
「どないしたん?」
「…何でもねぇ。あっちが合流地点だ」
「あ…うん」
こちらを振り返る純の訝し気な表情に、藤枝は努めて平静に返す。
目的地へ順調に進むカヌーとは裏腹に、2人の心中は妙な流れにざわつき始めていた。