第4章 番外篇・僕と『ヒゲ』
『酒とワルツと男と男・2』
「結局、お前と彼女はそこまでの縁だったって事だ。今は競技に集中しろ。これから公式戦まで時間はねぇぞ。来年の全日本のリンクで、勝生に会うんだろ?」
「…そうや。僕は、最後に1人の競技者として勇利くんと同じリンクで会うんやった。僕の恋人は、当分スケートでええわ」
クスクスと笑いながら酒の入ったグラスを、藤枝のそれに半ばぶつけるように合わせた後で飲み干した純は、バーの片隅にあるピアノに視線を移した。
「おい、何処行くんだ?」
覚束ない足取りで移動する純を目で追った藤枝は、彼がカウンターにいるバーのマスターと言葉を交わした後で、ピアノの前に腰掛けるのを見た。
盛大に酒気を帯びた息を1つ吐くと、純は鍵盤を叩き始める。
ジャズアレンジの『テネシーワルツ』が店内に広がると、思わず藤枝も聴き惚れてしまう。
巧みな演奏だけでなく、失恋を歌った『テネシーワルツ』のメロディは、まさに今の純の心を如実に表していたからだ。
ボトルから酒を注ぎ足しながら、藤枝は純の演奏と何処か哀し気な横顔を眺めていた。
すっかり酔い潰れてしまった純は、藤枝に支えられながら彼のマンションに到着すると、ベッドに寝かされた。
「水と薬だ。気分悪くなったら言えよ」
「有難う…堪忍、迷惑かけてしもて」
「今夜は、飲ませた俺にも責任がある。気にすんな」
「なあ…何で僕にここまでしてくれるん?」
寝室を純に譲ってリビングに移動しようとする藤枝の背中に、いつもより無防備な声が届く。
「そりゃ、俺はお前のコーチだからだ」
「ホンマにそれだけ?」
「…お前は、何て言って欲しいんだ?」
心なしか硬質な声で尋ねてきた藤枝に、純は「ゴメン、今僕かなり酔うてるかも。気にせんといて」と呟いた後で、寝息を立てた。
眠ってしまった純に近付くと、藤枝はその黒髪を撫ぜた後で、耳元で低く囁く。
「お前は、スケートと…俺だけ見てりゃいいんだよ」
耳朶に髭と唇が触れる寸前まで近付いた藤枝は、純の形良い頭を撫でると、今度こそ寝室を出る。
酒のせいか、藤枝のベッドで眠る純の頬は、先程よりも更に上気していた。