第4章 番外篇・僕と『ヒゲ』
『お前の音を、傍できく』
「今、何て?」
「両親が都島にタワーマンションを買ったから、福島の実家が空く事になった。弟一家は東京暮らしで、大阪に戻って来る予定はまずない」
「…で?」
「だから一緒に住まねぇか、つってんだよ」
藤枝の部屋で住宅情報サイトを閲覧していた純は、何処か歯切れの悪い恋人の言葉に目を丸くさせた。
春に大学院を卒業した純は、新たなスケート人生を始めるに当たり、実家を出る事にした。
「今は新生活の時期で混み合っとるから、引っ越しはゆっくりでもええやろ」と家族に言われていたが、やはりできるだけ早く転居先を決めた方が良いと探すものの、中々条件に合う部屋がなかったのだ。
藤枝のマンションは単身者向けなので同居の選択肢はなかったが、それでも彼の近くに住居を見つけようとしていた矢先の思わぬ提案に、純は言葉を失う。
平静を努めようとするも頬の赤みは隠し切れなかったようで、近付いてきた藤枝に抱き竦められた。
「嫌か」
「そんな訳ないやろ。でも、家賃とか光熱費は」
「多少の負担はして貰うが、あまり気にしなくて良い。築ウン十年のボロ家に独り暮らしはキツイから、お前がいてくれると助かる。他には何かあるか?」
「…1つだけ。電子のでええから、ピアノを置かせて欲しいんやけど」
「お前んちのピアノは、グランドか?」
「ううん、アップライト」
その昔、祖父が孫達の為に買った中欧製のピアノは、3姉弟の中で純だけが現在も愛用し続けている。
「実家には、10年程前の内装の際、親父がお袋と喧嘩してまで作ったオーディオルームがある」
「え?」
「そこなら広さもあるし防音完備だから、安心して持ってこい。俺も、お前の素面のピアノを聴いてみたいしな」
スケート再開後間もなく、当時付き合っていた彼女に振られた純が、藤枝とやけ酒を煽った挙げ句ハシゴ先のバーのピアノを酔いに任せて弾きまくった過去を仄めかされ、藤枝の腕の中で更に顔を赤くさせた。
そして今。
オーディオルームでは巧みなピアノ演奏と、時折ピアノの持ち主の艶めかしい睦言が、奏でられているという。