第3章 『チロヌップ』
アシリパの視線の先、あの黒いキツネは金の目をこちらに向けたまま、足が張り付いてしまったかのように立ち尽くしていた。
まさか、自分が狩られるなんて思ってもなかったのだろうか。今も思っていないのだろうか。
「アシリパさん、捕まえるんだろ? そっと近づこう」
杉元は足元の氷の厚さを確かめながら、一歩、また一歩と先へ進む。
アシリパは、大の大人、しかもガタイのよい男が歩けるのだから、それよりだいぶ小さな自分は平気だろうと見当をつけたのか、警戒する事も隠れる事もせず、さっさとキツネに向かって歩いて行く。
どれくらいと言うのが良いのだろうか。
手は届かない物の、ちょっと足と腕を伸ばして武器を振るえば殺せるだろう位置と言えば良いだろうか。
それほどに近づけた。
「おい。なぜそんな所に座りこんでいる」
羆も鹿も逃げたと言うのに、どうしてずる賢くていやしい狐は逃げずにここにいるのか。
「キュ」
まるでアシリパに返事をするように鳴いたキツネ。
「見ていた。人がチロンヌプになった」
「キュ」
「幻だったとは思えない。だからお前を殺したくないし、チロンヌプがカムイになれるとは思っていないが、毛皮にも食糧にもしない」
獣らしい。と言うのが的確だろうか。
無表情を貫き通していた黒いキツネは、不意ににやりと笑って、牙を覗かせた。
「はて。アイヌの娘はあまり狩りに行かないと聞いたが?」
横で杉元が倒れた。
「杉元!」
「案ずるな、おしゃべりの間眠って貰った」
口を開き、人と通ずる言葉を紡いだのは紛れもなくキツネ。
「カムイ……神の類に近しくはあるが、下の下。今回の出会いは気まぐれじゃ」
「カムイはいつも気まぐれだ。だが、私たちはそれに従うほかない」
「賢い娘じゃ。いや、こんなことになるとは思って無かったよ? ちょいと生まれ故郷が気になってね。軽い身体になったから、見に行こうと思った」
そう言ってキツネはふわりと身を浮かせ、黒々とした身体を不可思議に透き通らせた。
霊魂だ。アシリパは息を飲む。