第3章 『チロヌップ』
誰もガサとも音を立てない。
ユクもキムンカムイも人も。
いや、立てることが出来ないで居るのだろう。
「どうしたの? アシリパさん」
青年、男。顔じゅう傷だらけで、目を見張ってしまうところだが、彼の前で身をかがめて一点を見つめているアイヌの装束の少女は、黙れ。と声を返しただけだった。
湖。しかし一面分厚い氷に覆われ、その上を動物も人も行き来することが出来る。その真ん中で。
「杉元。見てくれ、あれはチロンヌプか?」
「ん? キツネかって? うん、そうだと思うけど。ねぇ、真っ直ぐ前に熊がいるけど」
「キツネ……チロンヌプだよな」
「ねぇ。アシリパさん、聞いてる? 見えてるよね?」
男の名前は杉元。少女の名前はアシリパ。奇妙な二人連れが、凍った湖の淵に身を潜め、湖の真ん中に立ちつくす一匹のチロンヌプに視線を向け続けている。
一匹のチロンヌプ。キツネだが、アシリパも、向こうに見えるキムンカムイ、羆(ひぐま)も、ユク(えぞしか)の視線も全てを釘づけにさせている。
「キツネよりくまじゃないの?」
「あの黒いチロンヌプ。人だった」
「え?」
「あ、ほら! また!」
前足を上げ、鼻を天に向けフムフムと白い息を何度か吐く。匂いを嗅いでいるのだろう。
「うっそだー。アシリパさん、さすがに騙されないよぉ」
「ほんとだ! 嘘じゃない!」
ばかにされたことに激高したアシリパは、大声を出し、立ち上がってしまった。
あ。と気が付いた時には既に遅く、大きな獲物になりそうだった向こう岸のキムンカムイも、弓が届く範囲にいたユクも飛んで逃げて行ってしまった。
「チロンヌプ!」
キツネでも良い、夕食の獲物が逃げてしまう! とアシリパは咄嗟に矢をつがえ、キュン! と矢を放つ。
ろくに狙いを定めず放っても、やはり当たる事はなく、キツネは倒れない。
「なぜ逃げないのだ」