第12章 学び
私は一人、《白の鳳凰》本部の屋上で
両膝を抱えて考えていた。
生きていれば、それは行動に移す。
それは必ずしもいいことへ繋がるということではないかもしれない。
だが、その行動によって得た非は、その責任は「その行動を実行に移した『本人』」にしか取れないものだ。
人が死ぬ。
すると誰もがとまではいかないが、縁のあるものは哀しみ、嘆き、不幸になる。
共に紡いだ時、共に乗り越えたもの、それらの時間が長ければ長いほど、余計に尾を長く引くこととなる…
この世界で暮らす人にとっては、たったの一人だとしても誰もが親しい人がいる。
親、配偶者、子、親戚はもちろん、親友、恋人、仲間、幾多に渡るまで存在する。
たった一人としても、その存在は失ってからその重さに気付く。そしてそれは計り知れないほど大きい。
生きていく上で欠かせない、自分が自分であるために必要な人だったから。
あるものがあったからこそ、今の自分がある。
そしてそれは人にないものだったからこそ、今の自分へ至った。
だがそれは、他の人から見ればないものだったり、あるものだったりする。
目先のものにとらわれて、あることが羨ましくも思う時もあるだろうが
それがないことこそが、今の自分にまで成長する上では欠かせないものだった。
そしてその環境に伴い、『今』は大きく変わってくるだろう。
育った環境が誰もが違うからこそ、その人自身の価値観、在り方もまた変わりゆく。
そうして互いに影響し合って、繋がり合って、縁が結ばれて、『今』という環境は変わっていく。
だからこそ、その繋がりは重く、欠かせない大事なもの…それが命なのだと思う。
誰かに殺された場合では、死因が明白な分余計に膨れ上がる。
どんな行動であれ、その殺したという行動の責任を取れるのは「その行動を起こした本人」に他ならない。
その業(ごう)は、一生涯その罪を償うことに費やしたとしても足りないほどに…
『殺し』の罪は、ひどく重い。
だが中には、情状酌量の余地ありのものもある。