第34章 アメリカ到着
爺「じゃからわしは…
お主等が、その作品や主人公を嫌う理由も気持ちもようわかる。
わしもまた、嫌いじゃ」きっぱり
クレハ「これはまた…はっきりと;」
ケイト「何故に憮然と怒りの面持ちで?;」
爺「大切な娘を苦しめておるからじゃよ(ぷんぷん)
そして好きだという輩が多いのは、そういう部分へ目を向けてやれぬが故じゃろう。
そういう部分はとかく目につきにくく、言われなければわからぬことの方が遥かに多い。
しかし、わかった後であってもなお
「イエスマン」の如く、間違いであっても全て受け入れる上、「違う!」「間違ってなどいない!」等と口術する輩もおる。
狂信者のようにの。
悪いことは悪い。
それを見定めず、受け入れず、
好きだから、自分にとっていいことをしてくれる人だからと、そのまま受け入れる。
そのようなことをやっていては、明らかに誤った方向に進んでいる時や間違った意見に対しても指摘をせず、「はい」と答えるだけの行為と同じじゃ。
その態度は、全て受け入れてくれるように感じてされる側としては気持ちいいじゃろう。
じゃが、それが生むのはよいことばかりではない。
実際、社長の取り巻きがイエスマンばかりであったために危機に瀕した会社もある。
間違いがあれば正さねばならぬ、己の意見をもって正すこともまた必要じゃ。
いい人ならば何をやってもいいのか。
その場の怒り任せに人を殺した上、その後で悩みもせず笑っていても、それは「善」と呼べる行為か。人として赦せる行為か?
大いに苦しむじゃろう。殺された側の人間は特にの。
また、大切な人を殺された立場を経験している者はそれをより強く感じることになろう。
命の重さを理解しながら悩みながらの殺しならともかく、
その場の怒り任せの殺しをやっていながら何も感じぬそれらは、得てして「人道」と呼べるものなのか。
人として、恥ずかしくない生き方なのか。本当に、やっていい行為なのか。
それを賛同していたり、肩入れしておる輩は気付かぬじゃろう。
誰かに同じことをされた時、好きな人かどうかで態度ががらりと変わることを。
そしてその時に気付くのじゃ。
それが善かどうかは、人によって、その時の状況によって、簡単にコロコロと変わるものじゃとな」