第10章 恋知りの謌【謙信】湯治編〜露天風呂 前編〜
屋敷に帰り着いた椿が、
廊下をバタバタと走り自室へ急いでいると
「椿!屋敷の中を走ってはいけないと、いつも言っているでしょう!」
「母上…。ごめんなさい。」
厳格な母の叱りを受けた。
「先程、お見合い用の晴れ着が仕立て上がってきました。後で袖を通してご覧なさい。」
「…!お見合いなど…!しないと言ったではないですか!」
少し前に、両親から近隣の小国の大名の跡取り息子との見合いが決まった…と言い渡されていた椿。
正直以前から謙信に夢中だった訳ではない。
吹田の領地から出たこともなく、剣術に夢中の椿。
女子らしいことを好まない娘の行く先を心配した両親が見合いの話をまとめてきたのであるが
それで初めて将来というものを考えた椿は、
見えない力に流されて、自分の人生なのに知らない誰かの人生に飲み込まれてしまうのではないか…と、不安でいっぱいになった。
そんな時
幼い時から知っている、剣の師でもある謙信が頭に浮かんだ。
(謙信なら、いいのに。)…と。
「もう決まったことです。女子(おなご)の幸せは、妻として、家を守り子を育てることです。」
「そんなの!自分の幸せは自分で決めます!」
「そのためにも…早くからいろいろな殿方とお会いしてみねばならないのです。」
「…知らない人なんて…嫌です!」
「…上杉様は諦めなさい。」
謙信が湯治にやってきてからの娘の浮ついた様子に、母は目敏く気づいていた。
「…!!!」
「これまでは…妻を娶る気が無いものと噂されていましたから…可能性はないものかと、私達も少し気にしていましたが。許婚の姫君を連れてこられたでしょう。」
自分でも仲睦まじい様子を目の当たりにし、自分の入る隙などないことを思い知らされた。
だが、十分にわかっていることを敢えて言葉にされて、母の言葉とはいえ、椿はカッとなった。
「でも…上杉くらい大きな家柄なら…側室だって…。わたしは…わたしはそれでも構わない!」
「…椿!」
この行き先見えない不安な気持ちを
誰かに助けて欲しい。
いまの椿には
謙信しか思い付かなかったのだった。