第2章 ときめく時
(やっぱり家康さんだ。どうしたんだろう……木箱なんか持って……)
家康さんの視線の先に居たのは一匹の小さな鹿。
「……また、取れてる」
家康さんは、擦り寄る子鹿の頭を数回人差し指で突くと、持っていた木箱から包帯を取り出し、慣れた手つきで子鹿の足元を手当てした。
「その子、怪我してるんですか?」
背後から突然声をかけた私に、家康さんは一瞬驚いたように振り返る。けれど、直ぐに何もなかったかのように再び子鹿の方に視線を戻した。
(教えてくれる気はないみたい……。それにしても…)
「……凄く可愛いですね。私も触ってみてもいいですか?……って!!!……わぁっ!!」
そっと伸ばした指先。家康さんの返事よりも早く子鹿の方から先に擦り寄ってきて、思わず上げた短い悲鳴。
「……いちいち大袈裟」
「ご、ごめんなさい!まさか寄ってきて貰えるなんて思わなくて……びっくりさせちゃって、ごめんね?」
謝る私に子鹿は首を傾げるようにして、目をパチパチする。その愛らしい姿に自然と頬が緩くなり……もう片方の手を顎に添えた。
「…ふふっ。子鹿って想像してたより柔らかいんですね」
私は時折、触れる場所を変えながら擦り寄る子鹿を撫で続け口を動かす。そんな様子を隣で静かに見ていた家康さんは一度大きくため息つくと、私と同じように優しく子鹿の頭を撫で始めた。
その表情がどことなくいつもより柔らかい気がして、少し胸がホッとする。
「……ワサビ、あんたの事気に入ったみたいだね。今までは俺以外が触るとすぐ逃げてたし」
「この子、ワサビって名前なんですか?ふふっ。珍しい名前ですね。よろしくね、ワサビ?」
「なら、これから俺が居ない時の餌やり……あんたの仕事ね。気に入られたついでに」
「……へ?は、はいっ!よろこんで!」
家康さん直々にお仕事が貰えた事が嬉しくて、私は理解するのと同時に大きく返事をする。ほんの少しだけ家康さんに近づけた気がして私は心の中でワサビに感謝した。
「……忘れないでよ。……うちの大事な非常食だから」
「もちろんです!……って……えっ!!?」
(今、さり気なく非常食。って言わなかった!?)