第10章 約束ってのあ、守れなかったときが残酷だ
雅は高杉が去った後、明日のために部屋で三味線の調律を熱心にした。
(……らしくもないか。私から誘うとは)
三味線の胴の側面には、小さく一文字が筆字で書かれてあった。
恵。
それは母親の名前。
そこをそっと撫でた。
(…さっきハグされたとき、顔見られなくてよかった)
“記憶”ってのは本当に厄介だ。些細な動作で、パッと静電気のように前触れもなく思い出してしまうから。
特に辛い時のものほど。
あの時、晋助に正面から抱擁されて頭を触れられたとき、思い出してしまった。
(アイツの前で涙見せるのは、もうごめんだ……)
回想
江戸からかけ離れた、どこか遠い片田舎。
10年ほど前。
黒いコートを着たある1人の男が、医療用具を詰め込んだ黒いケースを片手に、肩にかけて持っていた。
その日は彼が長旅に出る日だった。
しかし、まだ女童だった私が行く道を阻んだ。
彼は困った様子で私をなだめたけど、私は首を横にしか振らなかった。
『“せんせー”……行か…ないで』
彼の胸に飛び込んで、黒いコートに顔を埋めてすすり泣きした。
『私……私は……せんせーと別れたくない!いっしょに行く…!』
大粒の涙を垂れ流し震えた手でコートを握りしめた。とにかく、引き留めたい一心ですがりついた。
“せんせー”は小さな背中を優しく抱き締めて、小さな頭を撫でた。
『俺も同じだ』
私は顔をゆっくり上げると、そこには優しい笑顔があった。
『だからこそ、行かなきゃならない。お前や、お前の母さんのためにもな』
しゃがんで同じ目線に合わせて、1つの医学書物を私に託した。
『お前は俺と共に来ちゃいけない。だがやること全て終わったら、必ずお前の元に帰る。約束だ』
私は書物を抱きしめて、袖で目からあふれ出るものを拭った。
『ほんと…?』
『俺が嘘付いたことあるか?』
『ない』
『よし!よく言った。ちと長い遠出になるが、いつものように土産でも楽しみに待っていろ。またな、雅』
それが、彼と最後に交わした言葉だった。
あの時の約束は、十年経った今でも未だに果たされちゃいなかった…
否、もう恐らく彼は、私の元に帰ってこないだろう……
何故なら私は、“もう一つの約束”を守れなかったから