第2章 石鹸玉の内側へ(佐久早聖臣)
「ヤマアラシのジレンマ」と最初に口に出して言った人は、誰だか知らないけど多分 天才だったんだと思う、私たちはヤマアラシ。誰かに身を寄せようとすると相手のトゲが自分に刺さる。大切な人も無自覚に傷つけてしまう。しょうがないことなのだ。生まれながらトゲを持った身なのだから。誰が悪いわけじゃない
優しいという言葉は好きじゃない。他人に優しくしなさいね、優しい心を持ちましょう。小さい頃から呪いのように唱えられてきたけれど、他人に優しくあれと言われる度に私は、「お前のトゲをすべて抜いてやろう」とにじり寄る大男の姿を思い浮かべる。その影は震える小さなヤマアラシの上に被さり、徐々に大きくなっていく。
トゲ無しで生きていけるのだろうか。
ヤマアラシがヤマアラシとして ヤマアラシらしく生きるには、トゲがなくてはいけないのではと、私は思うわけなのだ。ヤマアラシを見たことは無いけれど。
「琴葉は、何を調べてんの」
マスクをつけた聖臣が、ぼそぼそと私に訊ねてきた。上下黒ジャージという不審者の代表みたいな格好をしていながら、露出した眉間のあたりに私に対する不安と不審の念を滲ませていた。
「ヤマアラシの画像」と私は答える。
スマホの検索画面に並ぶ写真を指でスライドさせていく。ふと気になって調べてみたけど、思ったよりも可愛くない。目は小さく、動物園にいるカピバラにもなんとなく似ている。肝心の、身体の後ろ半分に生えた長いトゲは、鳥の尾びれのようにも見える。
「なんでこんな時間に、ヤマアラシなわけ」
聖臣が、私の手元をのぞき込む。髪の毛同士が触れあうか触れあわないかの距離を測るように、ゆらゆらと首を動かしている。私は質問に答える代わりに、「こんな時間、って言葉を聞くと深夜を連想するよね」と返した。
「なんでこんな早朝に、ヤマアラシ」聖臣が言い直す。
私は肩をすくめて答える。「特別な意味は無い」
顔を上げ、イチョウの木に囲まれた公園の広場をぐるりと見渡す。私たちが噴水の縁石に並んで腰掛けた時 あたりは真っ暗だったが、空は徐々に薄く白んできている。公園と言っても、子供が遊ぶよりも、老人がのんびり散歩するのにふさわしいところで、街頭がまだ白く灯っているこの時間に人影は無い。