第1章 ホットチョコレート
「おつかれさま。さん。」
小さな部屋に声が響いた。思わぬ登場に少し驚いたが、馴れ合ったり、砕けた態度をとったり、そんな姿は見せたりしない。それが、と雄一の社内でのルールだった。
「おつかれさまです。安藤さん。」
振り返る先に、少し疲れた表情の雄一が立っていた。それから、の後ろで缶コーヒーの落ちる音が響く。彼の口からため息がこぼれた。
は、横に並んだ雄一をちらりと盗み見る。彼は、先程の私と同じように街並みを眺めていた。その視線は、どこか険しげで、先程の会議で指摘されたことでも考えているのだろうか。雄一は、にとって、恋人である前に、尊敬する先輩の一人であった。
ただ、沈黙が続くのに耐えられなくなったは、何の気なしに辺りを見回した。さりげなくを装って見つけたふりをしたのは、雄一が持っていた小さな紙袋。本当は、彼がここに入ってくる時には気づいていたけれど。
「モテモテですね。安藤さんって」
「それ」と言って指差したのは、有名チョコレート店の紙袋。
「ああ。さっき、新入社員の子にね。いつもお世話になってますからって」
雄一は、ほんの少し嬉しそうに見えた。
「そこのチョコレート、私、大好きなんですよね」
雄一の笑顔が向けられた先に、わずかな嫉妬を覚える。わざとらしくそう話をつなげれば、知ってるよ、そんなこと。みたいな顔で笑いかけられた。家に帰ったら、特別にひと粒あげるからね、と言われたみたいだった。その新入社員の子には悪い気もするが、その気持ちが少し嬉しかった。
「あ、そうそう。さんからは、ないの?」
え?と思って顔をあげれば、いつものいたずらな瞳。
「ないなら、そのホットチョコレート、ひとくち」
馴れ合ったり、砕けた態度をとったりするのは、私たちのルールに反するはずなのに。突然のことに、怒りたいのか喜びたいのか、よく分からなくなったは、ただ、去っていく彼の背中を見つめることしかできなかった。
唇に残る甘いチョコレート味のキス。
「今日の夜、楽しみだね。」
去り際の、彼の一言が、うるさいくらい耳にこだましていた。
おわり